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Interview

髙橋 哲也 / 髙橋 静

自分にとっての価値を大切にしながら生きる

インタビュー

Interview

 今回取材したのは、紫波町役場に勤める髙橋哲也さんとヴィーガンアップルパイ&キッシュを専門とする『はちすずめ菓子店』の髙橋静さんのご夫婦です。取材を通じて、おふたりは大人になれば本来難しい「純真性」を保ちながら生きるということを上手くバランスをとりながら暮らしの土台に据えているように感じました。実直に地に足を付けながらも、どこか寓話性/詩的なものを大切に生きる。そんな本当に豊かな暮らしをおくっているような光景が散りばめられていました。

 その暮らしを読み解くにあたって、テーマは静さんが営む『はちすずめ』の名前の由来に関係する、宮澤賢治の著作『黄色のトマト』にしました。『黄色のトマト』は、小さな兄妹が”黄色”のトマトを”黄金”のように価値のあるものだと思い、サーカスの入場料として持っていくのですが、経済という価値基準がある大人に拒絶されてしまう物語です。この物語には大人になっていくにしたがって忘却していく「純真性」というものが描かれていますが、誰かが定めた価値ではなく、自分にとっての価値を大切にしながら生きる、ということが暮らしにとってどのような価値を与えるのか探求したいと思いました。どのような生き方を持ってすれば「純真性」が保たれ、心身ともに豊かな暮らしへ繋がるのか。おふたりの見ている風景を追体験しようと試みました。

  • TT : 髙橋哲也さん (岩手県紫波町役場)
  • ST : 髙橋静さん (はちすずめ菓子店)
  • KA : 有原寿典 (くらしすた不動産デザイン室)
  • AS : 佐々木新 (人 to ひと 編集長)

大人数で食卓を囲むことが当たり前だった幼少期
料理は全員で共有できるのが幸せで楽しい

AS : 静さんはどのような子どもだったのでしょうか。

ST : 私はおままごとが好きで、4、5歳くらいから10歳ぐらいまで、玩具ではなく、外で採れるお花や木の実を使って料理をする遊びをしていました。室内ではなく、自然の中で植物の色や香りを楽しみながら遊んでいた記憶があります。10歳くらいまでこうしたことをやっていたのですが、そのくらいの年齢になると、さすがにおままごとをやる人もいなくてこっそりやっていました笑。それから、祖父母が自分の家族と従業員さん4、5人位の食事を賄うくらいの農業をしていたので、草取りや収穫を手伝ったり、育てた野菜を漬物にしたりする事も好きでした。きっと大人数の料理を作ることが好きになったのはこうした環境が大きいかもしれません。いつも10人くらいで長テーブルを囲み食事をしていましたから。

KA : 実家や家族構成はどうでしたか?

ST : 生まれ育ったのは花巻市の田舎で、両親と私と弟の四人家族でした。祖父母は少し離れた駅前に、メガネと時計のお店を営んでいました。元々花巻の田舎の方の家はずっと農家でしたが、祖父が時計屋をやりたいと言って修行に行き開業したのです。ですから、農地は手放さず持っていました。私は自然もとても好きですが、人が沢山いる場所に惹かれて、よく祖父母のお店へ行っていました。家族4人で暮らしていた家の方が、実際過ごした時間は長いと思いますが、よく思い出すのは沢山の人と触れ合った祖父母の家です。だから、梅や柿など、四季折々の植物が花を咲かせ実をつける田舎の自然に囲まれた家と二つの家の記憶があります。

KA : 僕の実家も花巻なので、静さんと近いものがあると思います。家族とかコミュニティの境界が今よりも曖昧で、食事を作ってくれた女性陣も特定の誰かというより全員が「お母さんたち」というイメージがありました。きっと静さんは、その雰囲気が好きだから、率先してその輪の中に入っていったのではないかなと思います。

ST : 祖父が人を招くのが好きだったことが影響していると思います。昼は従業員さん達と一緒に食事をして、夜はその家族も招いたり、みんなが自由に楽しみながら幸せに食べている空間が好きでした。

AS : 学生時代はどのように暮らしていましたか?

ST : 15歳まで花巻で暮らしていましたが、高校一年生の時に両親が別居をして盛岡に引っ越しました。高校では美術を専攻していたのですが、友人の紹介で日本料理屋のアルバイトをしていました。と言っても、最初は皿洗いや調理補助といった仕事でしたが、ある日、急に若い板前さんがいなくなってしまい、オーナーの板前さんに「お前やるしかないから、頼むぞ」と言われて、料理を任されるようになりました。結局、高校三年間そこで働くことなり、純粋に料理をする楽しみだけでなく、仕事での喜びも学ばせてもらいました。そのオーナーは今でも第二の父親のように尊敬している方ですが、人として素晴らしいと初めて思った大人でもあります。ミスをしても全く怒ることもなく、いつも帰り際に両肩を力強く揺さぶられて「ありがとう。お前のおかげで助かったよ」と言ってくれるような人でした。皿を割ってしまった日でも同じように言われるので、この人のために頑張りたいと思えてくるのです。そういう人がいたからこそ、仕事の楽しさを知ることができたのだと思います。

KA : ずっと料理に関わってきたのですね。おままごとではなく、初めて料理をしたのはいつ頃ですか?

ST : 10歳ぐらいだったと思います。おままごとの延長線上でお菓子作りを始めて、祖父母の元で働く従業員さんたちに食べてもらっていました。その当時はそんなにお菓子作りも上手ではなかったので、決して美味しいとは言えなかったと思うのですが、社長の孫が作るならしょうがないと思って食べていたのではないかな笑。

AS : 自分の為の料理はあまりしない、とお聴きしましたが、従業員さんの為に作っていた時はどのような意識だったんでしょうか? きっと嬉しいなと感じる、ある種の成功体験があったのではないかと思います。

ST : 確かに最初の成功体験はそのような環境から生まれたかもしれません。もちろん、最初は新しい料理に挑戦して単純に楽しい気持ちだったと思いますが、いつしか食べて喜んでもらいたいという気持ちに変わっていったような気がします。家で自分用にお菓子を作り、従業員さんに作り、そこから発展してクラスメイトみんなに作る、というふうに対象も人数も変化していった。例えば、バレンタインにクラス全員分のチョコレートケーキを作って配ったりしていました。全員で共有できるのが幸せだし楽しかったのです。

KA : 料理という行為の背景を探っていくと、人生という大きな物語に繋がっていくのだと感じました。静さんの場合、無意識のうちに料理を選び、いつしか仕事にまで発展している。

ST : 本当は仕事にしなくてもいいんです。料理の根っこにあるのは、誰かのために沢山作って喜んでもらうこと。今はただ知識や技術が向上しただけで、やっていることは小さな頃から変わりないと思います。

KA : 結局、静さんがやっていることは料理をする環境自体を作っているのですね。ヴィーガンとかお菓子であることもいろんな背景があってのことだと思いますが、それは一側面を切り出したブランディングでしかないように思えます。僕には幼少期に作っていた料理という行為そのものが、今回のテーマである『黄色のトマト』のように映りますね。料理をしてみようと思ったきっかけはありますか?

ST : 母が言うにはとても食いしん坊だったようです。それから、もともと油脂や甘すぎるものが得意ではないので、自分の身体に合わせたものは自分が一番作れるという意識も強かった。ファッションが好きで服作りをしていたこともありますが、私にとっては工程がとても長い。綿花を育て、紡いで織って染めて生地にして、パターンを起こす。ひとりでこなすには時間がかかりすぎる。でも、料理だったら植えるところから始めてもその年のうちには食べることができる。料理にはすぐに自分のわがままを貫き通せる楽しさもあるかもしれません。

KA : 突き詰めていくと、自分に合うものをとことん追求して自分の為だけに作って摂取すればいい、となってもおかしくないのに、静さんはそうはならなかったことが面白いですね。これはボディビルダーとかアスリートも一緒で、自分の肉体を自分だけのために作っていくことで良いパフォーマンスに繋げていく。でも料理はその枠から一つ外に出ますよね。一旦自分が置いていかれる感じというか、いわゆる芸術などの作品作りとは違うと思いました。




同時並行で作ることによって
思いがけないものが生まれる

ST : 料理以外に目移りはしなかったのでしょうか。

ST : 高校3年間はずっと油絵を学んでいましたが、ファッションにも興味があって服作りも行っていました。だから高校卒業の時の進路は迷いました。食か、ファッションか。結果どちらも諦められなくて、早くやった方がいいものから順番にやろうと思いました。まずはファッションと決めた私は、美大の服飾科に進学しました。でもデザインすることは楽しいけど、作ることはそこまで楽しいと思えなかった。だから学校をサボったり、とても不真面目な生徒だったと思います。それにファッションの世界にいると、無理に流行を作らなければいけないことも自分には向いていないと感じていました。新しい美しいものを作ることは好きだけど、ものを大事に扱いたいので、大量生産大量消費ありきのファッションには向いていなかった。

KA : ファッションを選んだのは美大にそうした学科があるから選択しただけのように感じます。高校時代の油絵の経験からファッションであれば活かせそうだなという感覚で選んだのではないでしょうか。僕もそうでしたが、向こうから提示される選択肢を選んでいるだけなので、いつの間にか本当にやりたいことからずれてしまうんですよね。

AS : でも時間が経ってみれば、決して無駄なことではなかったのではないでしょうか。スティーブ・ジョブズの Apple のように、『はちすずめ』にはデザインや美術の要素が入り込んでいます。デザイン的素養をしっかり持った人が作っているのがわかる。

ST : それに関しては意識的ですね。私は料理もファッションでいうところのコレクションと似たような捉え方をしています。テーマやコンセプトがあって、ミューズがいて、カラーやキーワードがあるのと同じように、料理を作る前にはそうした要素を組み立てることから始めます。短大の後に入った専門学校では、そのようなことを学んでいましたが、それが今のお菓子作りの土台になっていると思います。




AS : 料理をしていて面白いと思う瞬間はどのような時ですか?

ST : いくつかの料理を並行してやっている時ですね。全てのコンロがついていて、オーブンも稼働して、まな板では材料を切っている状態。何品も同時に作りながら完成は全て合わせる。こうしたときはサードアイが見開かれるような興奮があります。

AS : その感覚とてもわかります。ブランディングでもいくつかの要素が一つのコンセプトに収斂されていく感覚は楽しいです。全然違うこと、相反するようなことをやっていて、それらが最終的にはひとつの地点に落ちていく。その中で予想外の発見があればなお嬉しい。

ST : 私が沢山の品数を作りたいというのはそういうところから来ています。ひとりやふたりだけだと品数も少なくなるから不完全燃焼になってしまう笑。それと、同時並行、且つ、沢山作ることで思いがけないものが生まれたりします。もちろん、最初はイメージした通りの段取りで進めているんですけど、その最中に何らかのハプニングが起きて変化していきます。本来醤油を入れる予定だったけど切らしていて、それなら代わりに昨日もらったものを入れようとか。ゲストの好みを考えると、この調味料を入れた方が良いとか。だから再現性のある料理は苦手な分野です笑。

AS : それは面白いですね。僕は、毎朝、7冊同時に読書をします。1冊だけ集中して読むのが苦手で、今、自分の興味がある別々のジャンルを少しずつ読むのが好きなんです。そうすると内容が混ざっていくんですね。小説だったり思想系の本だったり、いろいろなのですが、それらがお互い重なり合っていく。どれがどれかわからなくなってくる頃にアイデアが生まれやすい気がします。そこには絶対量というものが前提として必須なのでしょうけれども。

KA : 絶対量というのは確かにありますよね。質ではなくて量。でも一歩間違えると、それはカオスになってしまう可能性もある。僕も建築で現代的な中に古い建具をあえて使うのが好きです。ただどうしてそこに惹かれるのかはうまく言葉にできない。ロジックや効率を重視したら全然違う答えになると思うのですが、いったい何故なのでしょうかね?

小さな頃から古いものが好きだという静さん

ST : 普通のものを作りたくないからではないですかね?

ST : 私の場合、普段の料理ではそもそも同じものをもう一度作ろうとは思っていません。だからあの料理をもう一度食べたいと言われても絶対に作れない笑。でも自己ベストは更新できる。

KA : そういう意味では、結構、自分の楽しさに跳ね返ってきてる部分が大きいのかもしれません。でも、静さんの場合はそれだけではないのではないでしょうか?

ST : 両方ありますね。自己ベストを更新すること、誰かが食べて喜んでくれること。

KA : ダイレクトに反応が返ってくるということが、僕や新さんと違いますよね。どうしても裏方になってしまう僕らはなかなか直接的にリアクションを受けとれない。でも料理はもっと早い。静さんはそのような近い距離の関係性を持っていたいのではと思いました。




負荷や制限がかけられた苦しい時に
新しいクリエイティビティが生まれる

AS : ファッション業界から食の仕事へと変わっていったきっかけは何でしょうか。

ST : どうしても消費する流行には興味を持てなかったので、美大も専門学校も中退した後、25~30歳ぐらいまで服屋さんで販売員をしていました。そのお店は軍ものやワークウェアなど、歴史の中で必要とされて生まれた普遍的なものを扱っていたので、しっくりきたのだと思います。そうしたアパレル販売員をしながらも料理はしていて、ある日、偶然、自然農法の元祖と言われている福岡正信さんの本「自然農法わら一本の革命」を見つけて買いました。未来のやりたいこととして農業もあったので、不思議と目に留まったのかもしれません。それはちょうど多忙で体調不良だったこともあって自分のためにマクロビ・玄米菜食・自然農を自分のプライベートに取り込んでいた時期でもありました。その後、少しずつファッション業界の景気が悪くなっていき、働いていた服屋さんも個人経営だったので、そうした状況に鑑みて新しい道を模索し始めて、過去のバイト経験から調理師免許を取ることにしました。

AS : 保育園で働いていたとお聴きしましたが、なぜ保育園を選んだのでしょう?

ST : ちょうどその頃、前の旦那さんと出会い、彼はシングルファザーで4歳の娘さんがいたので、突然、母親になったことが大きいと思います。それによって急激に視点が変わっていったのです。これまではその日暮らしというか、とにかく自分が楽しく生きることを優先させていたのですが、母親としてそうは言っていられないなと。娘となるべく一緒にいたいから、土日休みで夜もちゃんと帰れる仕事を探して、保育園の調理師にたどり着いたわけです。

ヴィーガンアップルパイ&キッシュを専門とする『はちすずめ菓子店』

AS : 保育園だと沢山作れますね笑。

ST : そうなんです、私の欲求も満たせる笑。大量の調理はそれまでも趣味の範囲ではやっていたのですが、仕事としては初めての経験でした。私は全部で3つの保育園を1年ぐらいずつ働きましたが、どこの園でも10%くらい、食事でアレルギー反応を示す子どもがいました。果物だったり魚だったりいろんなアレルギーがありますが、そんな中、8から9割は卵や乳のアレルギーであることに驚きました。
その子どもたち対して、卵を抜いたおやつだったり、乳を抜いたおやつ、または両方抜いたおやつ、いわゆる除去食というものを作っていました。始めは栄養士さんに言われた通りに、それぞれ分けて作っていたのですが、次第に「分ける必要があるのかな?」と疑問を抱くようになりました。もちろん、それで亡くなってしまう人もいるので、調理師さんも保育士さんも細心の注意を払って間違いが起きないようにしています。それ自体はすごく大切な事だけれども、アレルギーがある子どもでも一緒に食べられたらと思ったのです。

AS : 『はちすずめ』の原型となるアイデアはここから生まれたのですね。

ST : 調理師は栄養士さんの決めた献立を作っているだけなので、メニューを決める権限はありません。だから栄養士になることも考えましたが、それまでの道のりが長いし、関わった一つの園しか変えることができない。それに家族がいる状況で大学に通うのは難しく、お店を開いた方が早いなと思いました。

KA : 子ども達との出会いが大きかったのですね。

ST : 子どもたちのお誕生日会でも、みんなで大きなケーキを切り分けて食べますが、アレルギーがある子は別なものを渡されて食べる。間違って食べてはいけないから別の島に分けられて。それは流石に可哀想ですよね。みんなで切り分けて食べるから美味しいし、楽しいのだと思うのです。卵も乳製品も食べられる人は食べたらいいと思いますが、ひとつの選択肢としてそういうお菓子があっても良いのではないかと。

AS : そんな中、ヴィーガンアップルパイに辿りついたのはどのようなきっかけだったのでしょう?

ST : ヴィーガンのお菓子作りをするにあたって、自分が好きなものだけでやろうと思いました。パッと浮かんだのが、アップルパイやアメリカンベーキングといわれる素朴な焼き菓子でした。それは自分のために作ったことがあるもので、これならずっとやっていけると思ったのです。

AS : 自分の為にあまり作らないと言っていた静さんが、アップルパイだけは自分用に作ったことがあるのですね。

ST : 私は自分の中に理想のアップルパイがあります。他のものは人が作ったものを食べても純粋に美味しいと思えるのですが、アップルパイだけは譲れなくて。焼き時間が足りないとか、林檎の厚さとか。

AS : そのバランス感すごく大事なことですよね。人が作ったものを許容することと、絶対に譲れないものがあること。

ST : 曖昧な好きなものを省いていった結果アップルパイになりました。そうと決まったらアップルパイを教えてくれる人のところに行こうと思って探していたら、代官山の松之助さんでアメリカンベーキングのアップルパイ教室をやっているのを発見しました。実際食べてみたら私の理想に近くて、それ以来、毎月夜行バスで東京まで習いにいく、という生活を4年くらいやりました。

KA : 結婚を境にして別の方の人生みたいですよね。やはりきっかけは子どもたちとの出会いだったような気がします。そういう意味では制限があったからこそ目標が絞れたという見方もできますね。負荷がかかったからこそ好転した。母は強しですね。それにアメリカンベーキングは子どもたちも大好きですしね。

ST : 今まではファッションも、農業も、食も、という形でそれぞれが中途半端だったのですが、制限が設けられて初めて要らないものが出ていった感じです。

KA : 負荷や制限がかけられた苦しい状況がクリエイティビティを生んだのですね。自分でどうにかできると思っている時はまだ余裕があって、自分でどうにもならないと思った時に初めて道が開かれる。この先の未来を自分でどうにでも作れると思っていた頃はまだまだ甘いんですよね。子どもという愛してやまないもの、給食のシステムというどうにもならないものに挟まれて、初めて創造的なアイデアが生まれる。このことがとても象徴的だと思いました。




周りの人を幸せにすることが自分の幸せ

AS : 哲也さんの幼少期について聴かせてください。

TT : 私は両親も祖父母も農家だったので、どこかに遊びに連れていってもらった経験はほとんどありません。稲刈りしている側で遊んだり、林檎の収穫を手伝ったり、そういうことを小学生ぐらいからずっとやってきました。元々ものを作るのが好きだったということもあって、農業をやらされている感覚もなく、割と小さな頃から将来的に農業を継ぐということを意識していたと思います。他に興味があったのは、ありとあらゆる図鑑。とりわけ星座の図鑑が好きでした。私の叔父さんがケンコー光学という望遠鏡などを作る会社に勤めていて、望遠鏡を買ってくれたことがきっかけです。その使い方を少しずつ覚えて、月や星座の図鑑を広げて星座や惑星を観ていました。

KA : 天体が好きなのですね。世界観が農業と似ていると思います。自然のサイクル、時間の流れ方、陽の傾きとか。

TT : 農業と世界観は凄く近いかもしれないですね。「土」と「空」。広大な場所に立ってゆっくり時間が流れていくのを観察する、地球と一緒に生きている感覚が似ているかもしれません。

AS : 「土」と「空」という、とてつもなく大きなものへの眼差しが哲也さんという人間を作り上げてきたように思います。本インタビューのテーマは純真性をどのように守っていくか、言い換えると、現代にどのようにアップデートしていくかということを探究しようと思っています。このテーマにしたのは、おふたりの暮らしの中にヒントがあると感じたからです。

TT : 今と昔を比べると、世の中の価値観がかなり変わってきていると思います。農業も祖父母の時代は生活の一部として行っていましたが、現代では生活というよりは効率的に生産するという方向性にシフトしています。私は今の時代の価値観だけでなく、そこにもう一つ足して、昔から続く価値観を思い出すことが必要になってきていると思っています。あくまで元に戻すのではなくて、価値観をもう一度持ってくる。私の両親は農業を機械化して生産効率を上げることをずっとやってきました。けれども、それを続けることが私の役目ではないと思っています。私がやるべきことは、もう一度自分たちが生きる自然の中にどうやって農業という新しい価値観を見つけていくか、そういった作業です。

ST : てっちゃんには、全体の幸せが自分の幸せ、みたいな感覚が根底にはあると思います。自分が良くなる方法より、みんながより良くなる方法を常に考えている。

KA : 僕の個人的な興味としては、農業のように途方もなく時間がかかることに対する哲也さんの視点です。静さんが今やっていることはパフォーマンスに近いと思うのですが、農業は長い目を持ってやっていかなければならない。静さんもゆくゆくは農業をやりたいと言っていましたが、そのような長い視点で物事を捉えることができる哲也さんのような人が、傍に必要だと感じたのではないかなと。

AS : 長い視点という意味で言うと、僕は数年前まで自分が生きる時間のリミット、つまり寿命である80~90年くらいでしかリアルに見られなかったのですが、子どもが生まれてからは僕らが死んだ後に子どもたちがどうやって生きていくのかを真剣に考えるようになりました。時間のスケールが子どもの分を合わせて倍になった感覚です。

TT : 新さんはその感覚が未来に向かって延びていったと思うんですが、私は昔から代々続いてきたものを背負っているという感覚もあります。だから過去から現在、そしてその先の自分の子どもや孫世代の未来まで見据えて社会を作っていきたい、という想いが強いです。

KA : 歴史を背負っている人と急に農業を始める人では、歴然とした視点の差がありますね。

AS : 哲也さんは小さい頃からそのような環境で育ってきたわけですからね。過去に築いてきた人たちの財産を未来に繋いでいくには自分たちだけが幸福では成り立たない。周りの人を幸せにすることが自分の幸せに繋がる、ということを小さな頃から当たり前に感じられる環境だったとも言えます。それ自体がとても豊かなことですね。




農業を通じて血縁の枠を超えた
仲間としての家族を作っていく

AS : 農業を通じて非常に大きな視点を持って生きてきた哲也さんは、今は紫波町役場で働いています。どのような経緯で働こうと思ったのでしょうか?

TT : 小さな頃からこれまでとは違った農家を目指そうと漠然と思っていました。だから、普通だったら農業高校に通ったりすると思うのですが、直接的に農業に繋がることよりいろんな体験をしようと考えました。農家を継ぐこと前提として、幅を持たせる為の学びを他で行おうと。大学では農学部に入りましたが、農業経営ではなくてバイオに興味を持ちました。結果的には大学で微生物の研究室に入り、そこで土づくりの基本を学ぶことができました。それから大学を卒業して紫波町役場に就職しましたが、そこでいろんな人に出会って、今の価値観が形成されたと思います。紫波町役場では、集落の特徴や郷土料理などを紹介する1冊の本を作ることに携わりました。そこで初めて深く地域づくりというものに触れたのです。同時に、循環型まちづくりの一環として、紫波町内の小中学校の給食を紫波町産の食べ物で作っていこうとする、いわゆる食育の動きもありました。その担当となったのが私でした。それまで繋がっていなかった農家と給食を作る現場を繋ぐ役割として、お互いが納得する基準を作ったり、研修会をしたり。お互いを認め合えたことで、供給率が上がりました。

AS : 将来的にどのようなことををやっていきたいと思っていますか?

TT : 大きく言ってしまうと、いい地域をつくりたい、ということを目標にしています。農業もまだ本気でできていないですが、私自身がいい林檎や米を作ろうという気持ちはあまりありません。それよりも、人を育てて、人と土地が繋がっていくような新しい農業の在り方を考えています。現状では周りの農家さんはどんどん辞めていって土地が余っています。一旦その土地を私たちのところで引き受けて、本当に農業をやりたい人を雇用したり、一緒にやったりして、その人がひとり立ちできるように支援したい。農業はいきなり始めるのが難しいですが、そういうものを一つの仕組みとして作ることができたなら、人を育てながら土地も回していける。これまでのように農協の指導で「これを作ったら売れる」みたいなものを一律に行うのではなく、その人が本当に作りたいものを各々の手法でやっていく。オーガニックでも、珍しい野菜でも、農業にも多様性があっていいと思うのです。

KA : その感覚よくわかります。不特定多数の人に自分の影響を振りまきたいわけではないのですが、僕も最近、自分がやってきたことを教えたりしながら誰かと一緒にやりたいと思うようになりました。

TT : 他者を受け入れて一緒にやっていく中には、血縁の枠を超えた仲間としての家族みたいな感覚があると思います。不特定多数ではなくてチームのような感覚です。

KA : 同じ方向に一緒に進む、「Together」である感覚がやはり必要なのだと思いました。

ST : 心理学者アドラーでいうところの「共同体感覚」ですよね。昔は自分たちの血縁だったり、地域や集落がコミュニティでしたが、今はそれが無くなりつつある。だから新しい形の共同体をつくり始めている。農業だったり、お菓子作りだったり、みんなが好きなことをやって、それぞれの形で「共同体感覚」を生み出そうとしている。それができてくると貨幣も不必要になってくるかもしれません。私はそうなっていったらいいなと思います。