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Interview

佐藤智美

人の一部分だけでなく本質そのものにふれたい

インタビュー

Interview

 今回取材したのは、岩手県花巻市中笹間で『田葉子屋 (たばこや) 』と女性専用の施術院を営んでいる佐藤智美さんです。

 『田葉子屋』は、ドイツ製 Opal 毛糸、オーガニック食品、地元の無農薬農家の野菜、オーガニックコットンのナプキン、ハーブティーなど、心身健やかな暮らしを提案する小さな商店で、地域を繋げるひとつのコミュニティとも言える場所です。智美さんは店主としてお店に立ち、人と人を繋げ、暮らしをサポートする役割を担っています。また、「Ba-therapy (施術) 」、「Body work (yoga.pilates) 」 を行い、様々な症状からの治癒力をサポートする理学療法士でもあります。

 自由で創造的、よく笑い、人を包み込むような包容力がある。他者に大きく開かれているけれども、その距離感が絶妙で、仕事とプライベートが地続きにあり、裏表がない自然体を大切にしている智美さん。

 今回の取材では、多くの魅力を持つ智美さんの生い立ちから現在に至るまでを辿り、その視座や暮らし方を探求しました。

  • TS : 佐藤智美 (田葉子屋)
  • AS : 佐々木 新 (人 to ひと 編集長)

書くことで自らに問いかける
バスケノートから学んだこと

AS : 智美さんの出身はどちらですか?

TS : 生まれは花巻で、赤ちゃんの頃は八戸にいたこともありますが、幼少期は山形の酒田市で暮らしていました。『田葉子屋』がある岩手県花巻市中笹間には、小学校に入学する頃に引っ越しました。

AS : 幼少期はどのような子どもだったのでしょうか?

TS : 私は長女で妹と弟がいますが、ひとりで遊ぶことが多かったように思います。その遊びを妹弟に真似されても気付かないような我が道をいくタイプでした。幼稚園の頃は粘土で遊んだり、小さな紙をつなげて大きくした紙に絵を描いたり、ひとり遊びが得意でした。幼稚園の友達とおままごとしたり、喧嘩をした記憶は殆どありません。お寺と繋がっている幼稚園だったので、お坊さんがピアノを弾いてくれたり、泥んこになって遊んだり、本当にのびのびと育ったと思います。
母から聞かされたことですが、幼稚園では帰りの会の時に先生が絵本を読んでくれていたようで、「ともちゃん、片付けしないと絵本が読めないよ」と言われていたこともあったようです。協調性があまりなく、母は少し心配だったようです 笑。当時は、他者と深く関わりたいという気持ちがあまりなかったのでしょうね 笑。

AS : 小学校に入ってからどのように変化しましたか?

TS : 小学生になると、周りを冷静に見ることができるようになりました。「こういうことをすると先生に怒られる」「テストでいい点数とると家族が喜ぶ」という他者視点で物事を理解できるようになり、良い子でいれば穏便に事が進むと考えて、周囲に染まっていった感覚があります。

AS : その当時はどのような遊びや活動をしていたのですか?

TS : 文房具やシールを集めるのが凄く好きな子どもで、みんなに真似されたりしていました。活動としては、小学校高学年にミニバスケットボールを始めました。女性のコーチが一緒に練習してくれて、その方が「バスケノートを書こう」と薦めてくれました。バスケノートはコーチが添削してくれて、漫画「スラムダンク」のイラスト付きの返事をくれたり、凄く楽しかった記憶があります。書くことで自らに問いかける、という基礎がこの時、出来上がったように思います。

AS : 私のイメージとして智美さんは内省とアウトプットのバランスがとても素晴らしいという印象です。その力はバスケノートから培われていたのですね。具体的にはどのようなことをノートに記していたのですか?

TS : 「なぜあの場面でミスが起きたか」など個人の反省と、チームとして集団の中での反省がありました。あとは先生やコーチから貰ったアドバイスも書き留めていました。こうしたことをマメに行っていたので、話をよく聴く子どもというイメージが先生にはあったのか、褒められたこともありました。学校では先生の喜ぶポイントを理解して生活していましたが、バスケノートを書くことは好きだったので、それを認められて褒められたことが凄く嬉しかった記憶があります。

AS : 自分が好きな事を行い、そのことで誰かが喜ぶという成功体験がこの頃からあったのですね。

TS : 振り返ると、ミニバスケットボールやバスケノートでの経験は、その後の私をかたちづくる上で重要な要素だったのかもしれません。

AS : その後、バスケットボールは続けたのでしょうか?

TS : 通っていた中学校はバスケットボール部が結構強くて、私の影響でバスケを始めた、二歳下の妹がとても上手くなり比較されるのを私が気にして、高校からハンドボール部に入りました。しかし、両膝の前十字靭帯を切ってしまい、初めてリハビリを経験しました。当時、リハビリを担当してくれた方が若い金髪の男性で、凄く格好良く見えてしまって、毎日胸を躍らせて通っていた記憶があります 笑。




人の一部分だけでなく
本質そのものにふれたい

AS : 理学療法士を目指したのはその経験があったからですか?

TS : はい、とても単純な理由です 笑。あと、学生時代に友人から相談を受けて解決できなかった経験も大きいと思います。「大丈夫?」と声をかけたり、気にかけたりするだけでなく、実際に問題解決してあげたいと考えていました。

AS : 学生時代から友人の相談を受けることが多かったのですね。現在の智美さんをかたちづくる上で大きな影響を与えているように感じます。実際どのような相談を受けていたのでしょうか?

TS : 相談は恋愛や部活のチーム内での仲介役など精神的なサポートが主でした。祖母が『田葉子屋』でよく相談を受けていて、その印象があったから相談を受けることに抵抗がなかったのかもしれませ ん。

AS : 智美さんの特長として相談を受けてから実際の問題解決に向かう力が強いように感じます。多くの場合、相談を聞いて終わりにしてしまいますが、解決まで向かうというゴール設定が他の人とは異なるように思います。

TS : 振り返るとその人の本音を引き出したいと思っていたのかもしれません。事実だけでなく、起こったことに対してどのように感じたのか、心の動きや背景を知りたいと思っていたのでしょうね。

AS : 自分が怪我をした経験があるから理学療法士になるというのは自然な流れですね。理学療法士ですと、より物質的な関わりになっていくと思いますが、実際、活動されてどのように感じましたか?

TS : 理学療法士として仙台のスポーツを専門とした整形外科で働いていました。スポーツ整形外科では手術をした後のリハビリや、外来の腰や肩が痛い方、捻挫をした方を診ることが主になります。1日に20人くらい来院されるので、診察時間は短くて、ひとり当たり約20分くらい。そうなると、「話を聴き、身体を触って、アドバイスをする」という行為を矢継ぎ早で行わなければいけなくなります。深くその人を知ることはできません。だから少しずつズレが生じてきました。私は目の前の人を知りたいのに、理学療法士という立場からは、膝が直って歩いたり、走ったりすることを問題解決として、筋肉量や膝の曲がる角度など機能構造として見なければいけなくなります。症例報告したり、他の人に伝えなければいけない時、私はその人の魅力を多く知っていても、その部分はどうでもいいことになってしまう。そこに違和感を感じていました。

AS : お話しを聞いていると、他者の一部分だけでなく、その人の本質そのものを知りたいという感覚が根底にあるように感じます。

TS : はい、人の本質的な部分にふれたいのかもしれません。治癒力は人自身が本来持っている力だと思いますし、首が痛かったり、腰が痛かったりするのも心理的要因の場合があります。身体と心理は密接に結びついていて、問題の本質を理解していないと根本的には治らない。本質的な問題を解決してあげることで身体が持つ本来の治癒力が発揮するはずなのに、それが身体一辺倒の見方しかできないと難しくなってしまいます。

AS : 智美さんにとって理学療法士は、他者の生命にふれる、知るという行為のあくまで一つのアプローチだと思いました。また、バスケノートで自分を内省するように、人を介して自分を知っていくような感覚も同時に起こっているような気がします。そう捉えるとスポーツ整形外科での働き方は本質からズレていってしまいますよね。

TS : 身体のみを診て終わりでしたから、私の中での矛盾はどんどん大きくなっていきました。私自身の身体も疲弊していたので5年働いて辞めました。





自身に無理をさせて頑張っている女性サポートしたい

AS : 岩手県花巻市笹間に戻るのはそのタイミングですか?

TS : 辞める2年くらい前から月に1度、ひとりで治療院をやっている先生のところに学びに行っていました。何か運動を教えるわけでもなく、優しい施術をされる方です。「暮らしや生き方が身体に現れる」という視点で人間自体を見る。その視点が本質的だなと感じるようになり、スポーツ整形外科を辞職した後、その先生のところで約1年ほど学ばせてもらいました。
その間、父が単身赴任で宮城県古川で働いていたので、一緒に週末だけ笹間に帰っていました。その頃の私は、人間は自然の一部だと考えるようになっていて、『田葉子屋』の周りは自然が豊かだし、良い環境だと感じるようになっていたので、訪れるたびに少しずつ故郷に戻る決意が固まっていきました。

AS : それでも笹間に戻る時は勇気が必要だったのではないでしょうか?

TS : そうですね。大学もひとり暮らしも結構なお金が必要でしたし、国家資格を活かす理学療法士を辞めるのは勿体ないと父には言われていました。けれども、母の応援もあったことや、自分自身の身体がボロボロで一度自然に戻す必要があると感じていました。小学校の頃からアトピーが酷かったのですが、その頃も酷かったのです。

AS : 智美さんご自身も身体に反応が出る人だから、同じような境遇の方を理解できるし、興味があるのですね。他者への興味と同時に自身への興味が表裏一体になっているような感覚を受けました。

TS : 祖母もパーキンソン病で少しずつひとりで出来ることが少なくなって弱っていく姿を見ていたから、自身に無理をさせて頑張っている女性を見ると、悲しさや怒りと同時に、サポートしなければいけないというセンサーが働いてしまいます。

AS : 他者を見過ぎることで自分が疲れてしまうこともあるかと思いますが、智美さんは自身への矢印を向けることも上手だと思います。内と外のバランス感が巧みな印象が強い。こうしたバランス感はご自身でも意識されているのですか?

TS : 人の話を聴いたりする場面が多いので、ある意味自分をしっかり持っていないと流されてしまいそうになったり、他者のエネルギーが流入して疲れてしまうこともあります。そのような経験を多くしてきたので、無意識のうちに自分だけの時間を大切にするようになっているのかもしれません。

AS : 笹間に戻ってきた時はボロボロだったとお聞きしましたが、その後、どのような変化がありまし たか?

TS : 笹間に戻ってきた当初は、失った自分を取り戻したくてひとりで籠もっていました。人と関わりたいともあまり思えなくて、家で料理をしたり畑仕事をしたり。子どもの頃と異なり、家族と対等な立場になっていたので、よく祖父や叔母とも喧嘩をしていました。
変化があったのは毛糸と出会ってからです。家にいると手芸をしたくなって、最初はなみ縫いで雑巾を縫っていたのですが、それから刺し子になって、かぎ針へと変化していきました。雑誌でopalの毛糸を見つけて気仙沼まで買いに行き、『田葉子屋』で販売するようになってから客層にも変化が生まれました。opalの毛糸を置く前は、顔見知りのおじいちゃんやおばあちゃん、子どもたちが訪れていましたが、全く知らない人が来るようになりました。その方々を観察していると、暮らしを大切にしている方が多いなと気づいて、無添加物の食品も置くようになりました。
実は笹間ではこうした商品の良さはわからないだろうなと最初は思っていたのです。しかし、色眼鏡を辞めてみたら面白がって訪れてくれる方が増えていきました。それ以降、「自分が本当にやりたいことに周りを巻き込んでしまえ」と思うようになりました。

AS : 僕の印象としては自分の好きなことと、周りが潜在的に欲していることのバランスを図っているように感じます。手芸はもともと好きだったのですか?

TS : 実は編みものが凄く好きかと問われたら、決してそういう訳ではないのです。お客さんの方が断然編めます。むしろ、自身が編むよりも楽しんでいる人が集まる場をつくること、やりたいことを一緒に叶えていくのが私の役割になってきたように感じています。

AS : 理学療法士の話から見立てると、そもそも智美さんの根本にあるのは人と関わりながらその人自身を知っていき、自然に良い方向へと変わる、ということに興味があるのかなと思います。編み物自体というよりはそれが媒介となって、人が集まり、その関わりの中で有機的に人が変化していくことがやりたいことなのかなと。

TS : 人が変わっていくことに凄く興味があります。編み物を手伝ってもらっている方が交通事故にあって、視覚が弱くなったことからネガティブになっていました。しかし、彼女は編み物がとても上手で、編み会を始めたら明るくなって輝き出し始めました。現在では彼女自身も楽しんでくれていますし、私もとても助けられていて、良い関係性を築いています。




「あなたは何をしてる人?」と問われても
しっかり答えられる自分でいたい

AS : 自分が好きなものを置くようになった『田葉子屋』では何か変化がありましたか?

TS : お客さんがスタッフのように『田葉子屋』のことも商品のことも理解してくれるようになって、他のお客さんに説明してくれたり、お客さん同士で自然に仲良くなってきました。また、お客さんが『田葉子屋』のイベントに出店してくれることもあります。みんな家族のようで、それぞれの得意なことを活かしている。そんな姿を見るのが私は好きです。

AS : 智美さんは、現在、紫波町の小さなコミュニティ内で暮らしていますが、こちらに来て何か変わったことはありますか?

TS : ここは、「私」を取り戻す場所になっているかもしれないと感じています。『田葉子屋』にいると他の家族もいるので、集中して何かやりたい時にどうしても気が散ってしまいますし、一瞬で現実に引き戻されてしまう感覚があります。私自身をチューニングする為に、『田葉子屋』と距離を置けたのは良かったと思っています。

AS : コミュニティ内で暮らしている隣人はいかがですか?

TS : 住民の中には、ここに住み始める前から『田葉子屋』に訪れていた方もいたので、知っている人たちの中に入っていくという新しい入居の仕方でした。ですから、一人暮らしという感覚はあまりありません。隣人はさまざまなジャンルの面白い仕事をしている方が多いので、ここに入ったらよりクリエイティブになりそうだ、という期待感もありました。新しい学校や部活のようで、「ここではしっかり個性を出しましょう」と言われている感覚です 笑。海外に出た時「あなたは何をしてる人?」と問われても、しっかり答えられる自分でいたいと思っているので、「私は何がしたいんだろう?」と常に問い掛ける契機にもなっているように感じます。

AS : 僕としてはこのコミュニティは子どもたちにとっての学び場という感覚が強いです。ここでは自分らしい働き方や生き方を考えて、人生を歩んできた人が多いので、参考にして欲しい大人たちが間近にいるという印象です。僕たち家族は子どもの為に東京から引っ越してきたという部分が大きいので、一番それを望んでいるのかもしれません。智美さんが自身に問いかけているように、子どもたちにも「あなたはどんな生き方がしたい?」と、周りの大人たちを見て自身に問いかけていって欲しいと思っています。

TS : 大人が入居してもそんな感じです 笑。

AS : これから先の未来をどのように思い描いていますか?

TS : いま『田葉子屋』で築かれているような人と人の関係性が、日本を超えて世界で広がっていけば良いと思っています。私が移動したり、場所も固定せず、ワールドワイドになっていくような未来です。そして、より私自身の可能性を探求して表現していきたいです。

AS : 人を知り、人の本質そのものにふれるという、智美さんの潜在的な欲求は、人種や世代、性差や価値観の境界線を超えて拡がっていく可能性が大いにあるように感じました。

TS : 一緒にクリエイトする喜びは、たとえ異なる人同士でも同じようにある筈だと信じています。

AS : むしろ物理的な距離が遠ければ遠いほど、差異があればあるほど、本質的なつながりとして智美さんのような人が求められるかもしれませんね。僕はその方が智美さんには向いているような気がします。

TS : 私が新しいことに挑戦しようとすると、周りの人も視野が広くなっていく感覚があります。例えば、SNSを通じて、そのような投稿をすると、「これはなんですか?」「私もこの人に会ってみたい」などの反応があり、周りの方が新しい世界に出会う契機になっているのかもしれないなと感じています。

AS : 海外のものを智美さんが持ってきたり、反対に日本のものを海外に持っていったり、文化的な違いや、思想や価値観の違いがあればあるほど智美さんの目利きの能力が活きてくるような気がします。他者のために何かすることに喜びを感じることができて、自分にも還元することができるから、その距離が遠ければ遠いほど、輪が大きくなっていくイメージです。

TS : ありがとうございます。商品も東北や県外のものだけではなく、海外のものがあってもいいですよね。いまの『田葉子屋』を築いてきた祖母や母も安ければよいのではなく、常に地域と繋がりながらも自分が納得するものを置いていたので、私にもそうした眼が少しはあるのかもしれません。これからいろいろと挑戦していきます。