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Interview

南條 亜依

自分が主役になるよりも周りのコミュニティを発展させたい

インタビュー

Interview

 今回は岩手県紫波町にて、空き家を改装したカフェ&複合施設「YOKOSAWA CAMPUS」を運営している南條亜依さんを取材しました。

 福島県石川町生まれの南條さんは、神田外語大学在籍時に、インターン生として岩手県紫波町を訪れ、次世代的な紫波のまちづくりに共感し、東京と岩手を夜行バスで往復する生活をスタートさせました。その後、人々が集まれるコミュニティをつくりたいという想いを形にするべく、紫波町地域おこし協力隊として紫波町へ移住し、「YOKOSAWA CAMPUS」を立ち上げます。現在では、「本とローカリティ」をテーマにしたイベント「本と商店街」の実行委員会のメンバーとして、日詰商店街を巻き込んだ場づくりを行なっています。

 今回のインタビューでは、自分が主役になるよりも周りのコミュニティを発展させたいという想いを持つ南條さんの生い立ちから現在に至るまでを辿り、その原動力や、暮らし方を探求しました。

  • AN : 南條 亜依 ( sasatta.llc 代表 )
  • AS : 佐々木 新 ( 人 to ひと 編集長 )

周囲から「駄目な子」だと思われるのが怖かった

AS : どのような場所で育ちましたか?

AN : 生まれは福島県石川町という、いわきと郡山の中間あたりに位置する人口約1万人くらいの小さな町です。実家はその地域でも端の方にあって、紫波町と姉妹都市の古殿町との町境にあります。通学していた小学校は1クラス10人ぐらいの小さな学校で、球技をするにも2学年合同で行わなければいけませんでした。母校は戦後のベビーブーム時に建設されたようですが、その後、人口減少に伴い、廃校になってしまいました。現在は石川町にある甲子園常連校で、陸上競技なども強いマンモス高校の寮として活用されています。

AS : 幼少期はどのような家庭環境でしたか?

AN : 祖母、祖父、祖母、両親、私、妹という家族構成でした。祖母がパワフルな人で、いつもその後について歩いていた記憶があります。祖母と一緒に、春は裏山で竹の子をとったり、GWには田植えをしたり、軽トラックに乗ったり。家で執り行われる葬式の準備などを女性全員でやるような昭和の男尊女卑文化の中で育ちました。

AS : 南條さんは平成生まれだと思いますが、まだまだ場所によってはそのような文化圏があるのですね。

AN : 家に帰れば常に誰かがいる、というような現在は失われつつある環境でもありました。自分の部屋もなく、誰かが常にいる中で何か作業することも自然に受け入れていました。

AS : そのような環境の中で、南條さんはどのような子どもだったのですか?

AN : 学級委員長を務めたり、妹がいることもあって、周囲にはしっかり者として認識されてる場面が多かったと思います。

AS : 現在も周囲にはそのように認識されているように感じますが、幼少期からそうだったのですね。中学生の頃は何に興味がありましたか?

AN : 中学校の頃は、英語の先生がすごく好きだったこともあって、誘われて中学生英語弁論大会に出場したり、英語に興味を持っていました。当時、テレビでも海外ロケに行く番組が増えていて、「私もいつか海外に行くんだ」と漠然と考えていた時期です。

AS : その後、想いを実現する形で東京神田外国語大学に進学するのですよね。大学生活はどうでしたか?

AN : 実家からの仕送りがなく、バイトに明け暮れていました。それでも大学生活は楽しくて、ハーフの人や留学帰りの人も多く在籍していたこともあり、世界が一気に広がった感覚があります。その中に休学したり留年したりしながらも自分が本当に学びたいことへ突き進む人がいて、そんな生き方もあるんだと驚きました。

AS : 地方から上京すると世界には本当に多様な人がいるなとカルチャーショックを受ける時がありますよね。そのような環境から南條さんはどのような道を歩んでいくのでしょうか?

AN : 都会に憧れていたこともあって、将来は丸の内のOLになることを望んでいたのですが、同世代の子たちは留学していることが当たり前だったり、学歴でも勝てなかったので、自分なりに何か強みを持たなければいけないと考えて地方へのインターンを選択をしました。

AS : 大学生時代にすでに客観的に自分を見ていたのですね。きっとここに至るまで何か大きな失敗や挫折などをして、自己を冷静に見るという過程があったから、そのような意識が育ったのだと思うのですが、南條さんにとっての一番大きな挫折とは何でしたか?

AN : 高校受験に失敗したことです。地方の小さなコミュニティにいたので自分はできる方だという自負がありました。周囲から「駄目な子」だと思われるのが凄く怖かった。そのプレッシャーは相当なものでした。しかし、受験を通じて自分のレベルを正しく認識できたので、大学以降は、その中でどうやって生きていくかを冷静に考えられるようになったと思います。




海外や都会に憧れながらも
地方への想いがずっと心の片隅にあった

AS : 地方へのインターンとして、何故、岩手を選んだのでしょうか?

AN : 海外や都会に憧れながらも、一方では地方への想いがずっと心の片隅にありました。田舎で暮らし続けるのが嫌だ、というネガティブな感情で故郷を出てきてしまったからだと思います。長女の私が戻らなければ実家がなくなったり、お墓の手入れをする人もいなくなってしまうかもしれない、という想いがどこか心に引っかかっていました。そして、地方でも面白いことをしている人を見てみたいという欲求も同時に湧いてきていました。本当は生まれ育った東北とは異なる四国の方へ行きたかったのですが、すでにインターンの募集が終わっていて、偶然見つけたのが紫波町でした。

AS : 福島県出身ですから、同じ東北ではなく全く文化圏が異なる四国に行きたかったという気持ちはすごく理解できます。ましてや海外に行きたかったのですからね。

AN : まちづくりを専攻していたわけでもないので、官民連携によってつくられた複合商業施設「オガール」のことさえも知らない状態で、最初は少し足取りが重かったのですが、周りのインターン生がまちづくりや建築を専攻している子が多く、少しずつ紫波町の魅力に惹かれていきました。紫波にいる大人たちが夢をもって官民連携のまちづくりを実現させたことや、楽しそうに働いて暮らしている姿を見て、高校生の頃の私が同じ体験をしたら価値観が全く変わっていただろうなと思います。

AS : 思い切って岩手へ飛び込んだことが大きな一歩になったのですね。

AN : 約二ヶ月のインターン活動を終えて、大学に戻った時、漠然と岩手で「何か」をしたいという気持ちが芽生えていました。もしもすぐ動かなかったら、その「何か」が形もなく終わってしまうだろうという予感があったので、それから毎週、夜行バスで東京から紫波に通って繋がりをつくっていきました。

AS : 毎週となると大変だったのではないですか?

AN : 週末に紫波に行き、月曜日の朝に東京に戻って学校に行くという生活でしたね。しかし、一年間かけて毎週紫波に通い、商店街の場所を借りて珈琲を淹れたり、お話しをしたり、楽しかった記憶の方が強く残っています。

AS : 一年間やり続けたというのは凄いと思います。南條さんは一度決めたらやり通す人なんですね。

AN : 友人たちからは武士のようだとよく言われます 笑。 もう少し上手に生きられたら楽だとは思うのですが、理想が高いのでやり遂げるために努力しないといけません。




ずっと誰かが商いを続けてきたという商店街への憧れ

AS : インターン活動による「何か」を形にしたいという想いは、どのような過程を経て、「YOKOSAWA CAMPUS」へと向かっていったのでしょうか?

AN : 私は珈琲屋をやりたかったわけではなく、人が集まれる空間をつくりたいと思っていました。当時、紫波にインターンでくる若者が多かったにも関わらず、結局、それぞれの場所に戻ってしまう。だから一過性のものではなく、いつでも誰でも集える場という構想を紫波町役場の方々と一緒に揉んで、現在の「YOKOSAWA CAMPUS」の形になりました。

AS : 南條さんはまず「場づくり」が根幹にあるんですね。珈琲屋は手段であり、目的ではなかったと。

AN : 人が集う場所といえばコミュニティスペースがありますが、私には馴染みがない感覚でした。お店のような何か媒体を通じて人が集まる方が私は自然だと思っています。その中で私ができることが珈琲屋で、最初から起業しようと思っていたわけではなく、現実的に進めていく中で起業しなければいけないことに気づきました。

AS : 起業と聞くと、みんなの先頭に立って引っ張っていく、という印象があるのですが、南條さんとお話しをしていると、前に出て仕切っていくタイプのリーダーという印象はあまりありません。むしろ、目立つと後ろに下がって引いてしまうような印象があります。

AN : 一歩引いて観察するのが好きなんです。それに、自分がどうしたいか自分でもあまり興味がない。商店街にもっとお店があったらいいのにとか、その為には自分が店を出せばもっと増えていくかもしれないとか、全体的にコミニティが増えて発展していくことに興味があります。

AS : 起業したかったわけではなく、必然的に起業に至ったということが腑に落ちてきました。

AN : 起業した時は、「何々があったらいいよね」と言う割には誰も口だけで実行しないことに対しての怒りが原動力になりました。若さと勢いで動けましたが、いま、その怒りは無くなりました。

AS : 怒りという感情は長持ちしないですからね。怒りだけではモチベーションとして続けられない。けれどもきっかけとしてはとても大切な感情だと思います。現在は違うフェーズに入っていると思うのですが、新しいプロジェクトは何か進んでいますか?

AN : 「YOKOSAWA CAMPUS」とは異なる、店舗を人に貸すというオーナー業をやっています。今後は自分がプレイヤーになるべきか、俯瞰して誰かを繋いでいくのか、まだ悩んでいます。それでも、起業してから変わらないのは、まちのデザインというポイントです。商店街に興味があって、あの場所でずっと誰かが商いを続けてきた、という文脈に憧れがあります。

AS : 学生時代に学級委員として全体を俯瞰して見ていた視点に近いですね。みんなが平和に楽しく過ごせるように見守っているというか。

AN : 書店や版元、飲食店や小売店などの出店者が、日詰商店街に集うイベント「本と商店街」では、主催者の一人として前に出た方が良いのかなとも考えたのですが、なかなかそうはなれませんでした。「自分が主役になるよりも周りのコミュニティを発展させたい」という想いが常に先にあります。逆に言えば、自分の好きなことを突き進めるタイプの人が羨ましいです。

AS : 「本と商店街」は異なるタイプ同士のチーム構成に見えたので、良いバランス感だなと思っていました。タイミングによって前に出て旗を振る役割を担ったり、後ろから支える役割だったり、変化していっても面白いですよね。




丁寧に暮らすことに向き合う

AS : 今後の活動として目指したいことはありますか?

AN : 岩手に来て6年間が経過して、私も20代後半になりました。ちょうどこれからどうしていきたいかを考えているところです。長くお店を運営していくことに楽しさを感じる人もいるかと思いますが、私は事業を計画して、立ち上げることが好きだったとあらためて感じています。日詰商店街にお店を増やしたいという気持ちは大きいです。

AS : 「本と商店街」はそのきっかけになりそうなイベントですね。

AN : 「本と商店街」はローカリティをテーマに、商店街の可能性の模索と日常の中に本やコーヒーがある、という「いつかのある日の日詰商店街」の擬似体験を大切にしているイベントです。その体験の結果として、紫波を好きになってお店を開いたり、移住するきっかけになってもらえたら嬉しいです。

AS : 実際、紫波町に移住して変化したこと、感じることはありますか?

AN : 簡単に面白い人に会えたり、何かに挑戦するとリアクションが返ってくる環境だと思います。ただ、それが紫波では受け入れられるけれども、同じことをして果たして東京でも受け入れられるだろうか、とふと疑問を持つことはあります。

AS : 確かに東京には多くの人がいて競争が激しいですから、その中で試してみたいという気持ちも理解できます。そこで切磋琢磨するから、そこでしか得られない学びや成長、出会いもあると思います。ライフステージだったり、性格だったり、求めるものによって、それぞれ良し悪しがあると思うので、どちらかではなく、二拠点にしてみても面白い発見があるかもしれません。お仕事の話ばかり聞いてしまいましたが、暮らしでは何を楽しんでいますか?

AN : ウィンタースポーツを楽しんでいます。私はスノーボードが好きなのですが、福島より岩手の方が雪質がいいし、マナーを守って楽しんでいる人が多い印象です。紫波は安比と夏油の間にあって、選択肢を選べるのも嬉しいですね。

AS : 夏は何をしていますか?

AN : 夏はキャンプに行っています。キャンプ場も多いので選択肢には困りません。また、紫波に来て季節をよく感じるようになったと思います。先日は、葡萄をもらって、もう秋が来たんだと思いましたが、以前にはなかった感覚です。

AS : 公私ともに充実していますね。仕事も、プライベートも。

AN : 現在暮らしている家では、隣人に同い年の友人ができたことも大きいです。一緒にごはんを食べたり、夜に花火をしたり、一緒に映画を見たり、良い時間を共にしています。また、ここに引っ越してきて変化したこととして、部屋に合うようなインテリアに興味を持つようになりました。自分の好きなものに囲まれて過ごす時間は快適で、丁寧に暮らすということに向き合うようになってきた気がします。

AS : 今回、南條さんとお話しさせてもらって、どのようなことで悩み、それをどのように生きる糧に変換しているのかを知ることができました。あまり考えていることを表に出さないという印象だったからこそ、コンプレックスや、秘めているものを知ることができて嬉しかったです。