slide

slide

Interview

佐々木千明

地域と繋がり、町に貢献したい

インタビュー

Interview

 今回取材したのは、岩手県紫波町の温浴施設『ひづめゆ』でマネージャーとして働く佐々木千明さん。

 『ひづめゆ』は旧紫波町役場庁舎の跡地活用事業として、町民の誰もが訪れることができた旧庁舎の場所を、再び人が集まる、且つ交流を楽しめる場所にすること、そして、旧庁舎という大きな拠点を失った日詰商店街地区のにぎわい創出に寄与したいという想いから生まれた温浴施設。高濃度炭酸泉による温浴施設だけでなく、サウナ発祥の地と言われるフィンランドでは交流の場として親しまれているサウナ施設も完備しています。

 千明さんは紫波町で暮らしながら、『ひづめゆ』のマネージャーとして、多世代とコミュニケーションをはかり地域を繋ぐお仕事をしています。いつも明るく、人を笑わせることが好きな千明さんの生い立ちから現在に至るまでを辿りました。

  • CS : 佐々木千明 (ひづめゆ マネージャー)
  • AS : 佐々木 新 (人 to ひと 編集長)

学生時代に経験した過酷な競争社会
人に嫌われないように生きていた

AS : 幼少期はどのように過ごしていましたか?

CS : 生まれは岩手県盛岡市ですが、すぐに花巻市石鳥谷町に引っ越しました。その後、父親が歯科医院を旧都南村 (現・盛岡市津志田) に開業したことから盛岡に戻ってきました。幼少期は、幼稚園、小学校ともに学区外へ通っていたことや、ひとりっ子だったこともあり、一人遊びが好きな子どもでした。近くの公園の噴水でびしょ濡れになったり、一人で秘密基地をつくったり、ゲームをしたり。小学校に上がってからは、父親がスキーの資格を持っていたこともあり、レーシングチームに所属して本格的にスキーを習っていました。冬はスキーのトレーニング、夏はマウンテンバイクに乗るようなアクティブな子どもで、よく男の子に間違えられていました。

AS : 男の子とはよく遊んでいたのでしょうか?

CS : 男女ともに友人はいましたが、女の子でも女の子らしい子よりは、鬼ごっことか缶蹴りが好きなアクティブなタイプの子が多かったような気がします。男の子とは毎日のように決闘ごっこをしていました。学区外ということもあり、実家まで遠い為、友人の家によく遊びに行っていました。しかし、ある日、母親に頼み込んで私の家に友人を連れてきたことがあります。母親は料理が好きでカレーを友人にふるまったのですが、それ以来「千明の家のカレーはうまい」という噂になって、毎週のように男の子たちが遊びにくるようになりました 笑。

AS : 学区外から通うは大変だったのではないでしょうか?

CS : バスで通っていましたが、両親は心配性で、大体は母に車で送ってもらっていました。一度、バスで通学していた際に、降りる場所を間違えて近くの人に道を尋ねようとしたところ、後ろから「千明!」と呼ぶ声が聞こえました。振り返ると、母親が声をあげていました。心配でずっと尾行していたのです 笑。

CS : ひとりっ子ということもあり大切に育てられたのですね。ご両親は厳しかったですか?

AS : はい、特に父が厳しい人でした。カラオケやゲームセンターは絶対に禁止で、友人と遊ぶにしてもどのような人なのか必ず尋ねられました。

AS : 小学生、中学生の頃はどのように過ごしていましたか?

CS : ひとりっ子気質で天真爛漫に育っていましたが、小学校で初めて虐めに遭いました。両親は共働きで私は学童に通っていましたが、過保護なくらい親に目をかけられていたこともあって、同じ学童の友人には羨ましく思われていたのかもしれません。中学生になってからも虐めに遭った時期があります。今振り返ると私自身の振る舞いも悪かったのですが、父が歯科医師をしていたこともあって、安直に裕福というようなイメージを持たれて敬遠されてしまったのです。その頃は父の存在が疎ましく感じられて、周囲には家庭環境のことを隠すようにしていました。

AS : 父親のことは好きだけれども、家族や家庭のことを話すと周囲の友人には敬遠されてしまうから、隠さなければいけないという防衛本能が働いたのですね。

CS : そのような状況を打開したい思い、当時は父を超える為に優秀な医者を目指そうと考えていました。

AS : 小さな頃から競争社会の中で生きてきたのですね。勉強は好きだったのですか?

AS : スキーでオリンピック選手を目指していた時期もありましたが、タイムが1秒でも遅いと年下の子の荷物持ちをさせられるような実力社会でした。そのような過酷な競争社会を体験していたので、中学生の頃は、勉学がある程度できるのに、敢えてできない振りをしていたこともあります。虐められていたこともあって、目立たないように人に嫌われないように生きていました。





違う自分に変身することが好き
売り場づくりからものづくりへ

AS : 高校生の頃はどのように過ごしましたか?

CS : 高校生の頃は「女の子は女の子らしくあるべき」というような考えを強く持っていたような気がします。ダイエットをしたり、着飾ったり、流行の音楽には全然共感できませんでしたが、友人と会話をする為に頑張って予習していました 笑。
中学校の部活は陸上部でしたが、高校ではバスケットボール部に入りました。小学生の頃、ミニバスケットボールを経験していたこともあって、もう一度挑戦したかったのです。当時のバスケットボール部は県内でも強豪で、1分でも試合に出場できれば運が良いという状況でした。そのような中、レギュラーに向けてトレーニングに精を出していましたが、高校2年生の冬、足に激痛が走って倒れ込んでしまいました。引退前の最後の大会で、冬までにレギュラーを掴んでいないと試合に出場できないという大切な時期でしたが、病院で検査しても原因不明だったこともあり、私の中で糸が完全に切れてしまい、それ以来、半年間ぐらい家に引きこもってしまいました。
もちろん、高校は部活だけではなく勉学の場でもあるので稀に通学していたのですが、理系に進んでいたこともあって全然追いつけなくなっていました。友人とも関係性が薄くなって修学旅行も苦痛でした。かと言って実家にいても1階から階段を上がってくる父の足音が聞こえると、「いつそこから出るんだ」と言われそうで辛かった記憶があります。

AS : その後、何か変化はありましたか?

CS : ある日、母が少しでも気が紛れればと思って『egg』や『sweet』などのメイクアップの方法が掲載されているファッション雑誌を買ってきてくれたのですが、それらが私の新しい扉を開きました。「メイクでこんなに人というのは変化するんだ」という驚きと共に、アパレル業界への興味が湧いてきたのです。
私の高校は進学校で専門学校や就職をする人は稀でしたが、まずこの土地や周囲の人から離れた場所でやり直したいと考えて、東京の『文化学園大学 (旧・文化女子大学)』 に進学しました。小さな頃から、両親が英語を学ぶために外国人の先生を招いていたり、ボーイスカウトでスコットランドの留学生が来ていたり、海外との繋がりがあったので、国際ファッション学科を選びました。ところが、入学前は「新宿キャンパスに通える私は最高に輝いている!」と想像を膨らませていたのですが、国際ファッション学科は小平キャンパスだったのです 笑。新宿で開かれた入学式で大泣きしたことを覚えています 笑。

AS : 当時の千明さんの自己肯定感の為にも、新しい人格のようなペルソナをつくるメイクやファッションが必要だったのかもしれませんね。東京での生活はどうでしたか?

CS : 下北沢のアジアカフェでアルバイトを始めましたが、頭を窯に入れてナンを焼かなければならない仕事があり、当時ヘアーエクステンションをつけていた私はそれまでも焼いてしまい、悲しくて1ヶ月ほどで辞めてしまいました 笑
その後、『渋谷109』で買い物をした際、岩手県出身の店員さんに出会い、その人に憧れてそこで働かせてもらいました。『渋谷109』での接客は楽しく、大学そっちのけでアルバイトしていたこともあって、大学は2年生の頃に中退してしまいました。服づくりは好きでしたが、自分の言葉で伝えられる販売員の方が私には向いていると思ったのです。

AS : その後、すぐに岩手に戻られたとお聞きましたが理由は何ですか?

CS : 「大学に行く為に上京したのでは?」と両親に問われたからです。自分でも納得して、岩手でも接客業はあると思い帰ってきましたが、アパレル販売員として雇ってくれるところはありませんでした。その頃はギャル系の金髪や派手なメイクを辞めて黒髪に戻していたのですが、悉く落とされてしまったのです。

AS : その頃の千明さんは新しいペルソナを獲得して人生が好転していたと見受けられるのですが、どうして戻したのですか?

CS : ギャル文化は好きだったのですが、自分の本質を目を向けてもらいやすい黒髪に戻しました。私自身もギャルであることよりも、化粧をして違う自分に変身できる体験自体が好きだったこともあります。
本質的な「私」を出すようにして採用試験に臨んでいる中、あるレディースファッションブランドが短期アルバイトを募集しているのを発見しました。若者に人気のある定番ブランドでしたので避けていたのですが、いろいろ吹っ切れていた私は「昔はギャルでしたが根は真面目です」と伝えて採用してもらいました。その会社でアルバイトから始めて系列の別ブランドに異動し、後に正社員になりました。自分の性格にとにかく自信が持てなかった私を伸ばしてくれた当時の店長には大変お世話になり、「服を売る接客トークよりも、いかに良いスタッフを育てて店を運営していくか」という大切な学びも得ました。

AS : その後、岩手でずっと働いていたのですか?

CS : 地域限定、もしくは、総合社員として全国を異動する、という選択肢を選べたのですが、私は岩手を出たかったので総合社員になりました。ブランドもこだわりがなかったこともあり、初所属がティーンズブランドの京都支店でした。関西に赴任して驚いたのは、関西人は本音で話すということです。ざっくばらんに腹に溜めずに話すことができたので、私には合っていたようです。「千明の話には落ちがない」と言われて、笑いへの関心も高まりました。その後、関西から東海へ異動し、店長としてエリア全体を見る仕事をしてましたが、体調を崩したタイミングで実家から近い仙台へ異動しました。

AS : ファッション業界を辞める契機は何だったのでしょうか?

CS : 30歳というひとつの区切りが見えて迷いが生じてきました。「私はこの会社に骨を埋める」と決意して働いていましたが、いつの間にか会社は大きくなって、売上を重要視する方向に向いてきた時、あらためて私は何を大切にするのかを問い直してみたのです。私は接客が好きで入社したのですが、立場が変化する中で、既にある売り物を魅力的に見えるように陳列する売り場づくりが好きだということがわかってきました。また、だんだんゼロからものづくりをすることにも興味が湧いてきていました。そこで、大学にもう一度挑戦する気持ちも強かったので、通信制の大学でものづくりを学ぼうと決意しました。

AS : 決意するまで葛藤はなかったのですか?

CS : あまりありませんでした。ちょうどコロナ禍というタイミングで決断しやすかったように思います。不安はありましたが、元々泣きべそかいてる気持ちの弱い人間なので、会社の盾にすがらなくても良いのかなと。それよりも新しい世界に早く触れたいという気持ちの方が強かったです。

AS : 大学では写真コースを選考したとお聞きしましたが、なぜカメラを学びたいと思ったのですか?

CS : 後継ぎがいない和菓子をつくっている伯父がいるのですが、いずれは食べられなくなるという想いから、形に残す行為に興味を持ち写真を学びたいと思いました。

AS : 通信制の大学で学び始めてから変化はありましたか?

CS : 初年度がコロナ禍だったので入学式もオンライン配信で授業もZOOMでした。年に数回の通学を楽しみにしていたのですが、結局叶わず課題を郵送して単位を取りました。その課題の中にセルフポートレートというものがあり、実家で過ごしてきた時代の虐められていた記憶や嫌々学校に通っていた記憶がフラッシュバックしてきて、夢の中でもうなされました。それでも、しっかり過去に向き合ったことで一皮剥けたような気がします。





私自身よりも「ひづめゆ」やスタッフの成長が楽しみ

AS : 『ひづめゆ』のマネージャーとして働く千明さんがサウナに出会った契機は何ですか?

CS : 雑誌『ターザン』のオンラインサロンに入会して、その中の知人からサウナの講義を受け、実際、近所のジムで「ととのう」ということを体験しました。それ以来、サウナにはまって、SNSで「熱波師楽しそう」と呟いたところ、『七時雨山荘』の方が反応してくれて、『ひづめゆ』へと繋がっていきました。

AS : 私もよくサウナを利用するのですが、身体だけではなく心までもリフレッシュされるような非日常空間を体感できますよね。千明さんにとってサウナはどのように作用するのでしょうか?

CS : 個人の悩みというのは周囲から見たら些細なことのように思えますが、本人にとっては大きな問題だったりしますよね。私の場合、一度悩み出すとなかなかそこから抜け出すことが苦手なので、そのような時はサウナが効果的に気持ちの切り替えをしてくれるように感じます。

AS : ここまでお聞きして、千明さんにとって様々なペルソナ=役割・人格を持ちながら生きることは大切だなと感じました。複数のペルソナを持つと、八方美人のような様々な場所で「いい顔」を持っていると感じる人もいると思いますが、本来、人は多くの側面を持っているものです。親の前にいる時の「私」、友人の前にいる時の「私」、先生の前にいる時の「私」。年齢を重ねていくと、関係性はより複雑にそしてより広がっていくので、すべての「私」が違って当然だと思います。それは決して悪いことではない。好奇心旺盛な千明さんは、多くのペルソナを持って生きた方が楽しいだろうなと感じました。

CS : 紫波町での暮らしは本当に幸せです。狭いコミュニティは苦手なのですが、逆にここでは安心材料になっています。オンラインサロンを通じて多趣味になれたことも良かったのかもしれません。

AS : 逃げ場のないような閉塞的なコミュニティだと、他人との比較や束縛感で苦しくなることがありますよね。紫波町にあるコミュニティは、さまざまな職業や年齢の方が混ざっているので、多様性に富んでいるように感じます。

CS : 『ひづめゆ』のオーナーである星洋治さんや星麻希さんは、紫波のお父さんとお母さんだと思っています。また、ご飯を多く作りすぎたら一人暮らしの仲間たちにお裾分けしたり、『ひづめゆ』の仲間たちを招いて食事会をしたり、程よい距離感が心地良いです。学生時代やアパレル時代は、他者と比べて生きることが多かったので、嫉妬で心が乱されたり、辛くなったりしていましたが、ここでは各々が自分の好きなことをして、高めあえる関係性が築かれていると思います。

AS : 確かに普段の千明さんを見る限り、現在は心地よく暮らしてるように見受けられますね。『ひづめゆ』のお仕事で目指していることを教えてください。

CS : 地域と繋がり、町に貢献したいという想いで町民の皆さんとコミュニケーションをはかっています。また、自身の成長もやりがいのひとつではありますが、『ひづめゆ』で働く若い子たちは初めてのアルバイトだったり、接客が苦手だと感じている子だったり、自分と違う生き方をしてきた子たちばかりなので、育成の責任感は感じますが、同時にモチベーションにもなっています。関わるスタッフの人としての成長が組織の成長に繋がると信じているので、私自身よりも『ひづめゆ』やスタッフの成長を楽しみたいと思っています。

AS : 「人に歴史あり」ですね。千明さんの過去の苦しい学生時代や様々な紆余曲折を知ると、ここに存在していることが奇跡のように感じられます。

CS : 正直、紫波町で暮らすとは思っていませんでしたが、一人暮らしのリズムが確立されているということもあって、盛岡の実家、両親との距離感も現在は非常に良いバランス感にあると感じています。

AS : べったり近くにいることだけが愛情ではないですからね。距離があるからこそ大切に思えたり、向き合ったりすることもあるので、そのような意味では良い距離感かもしれません。地域と繋がり、町に貢献する仕事に携わっていることもご両親としては誇らしいのではないでしょうか?

CS : 一番辛い時に傍にいて、色々見守ってきてくれたので、現在は安心していると思います。周囲には「風呂屋のマネージャーになった」と自慢しているようです 笑。

AS : 現在とても幸せそうに見受けられる千明さんですが、今後、思い描いている未来はありますか?

CS : 若い時の特別な何者かになりたい、大成したいという願望が消えて、現在は自然体で紫波町での暮らしを楽しみたいという想いが強いです。未来はそうした日々の延長線上にあると思っています。

AS : ある程度大人になり、程よい人との距離感がはかれるようになると、弱さを含めて自分がこういう人間だということを伝えても、それを認めてお付き合いしてくれる人たちが集まってくると思います。そのような豊かな人間関係が千明さんの周囲には築かれ始めているように感じました。

CS : 長く接客業をしてきましたが、『ひづめゆ』で働き始めて、まだ自分は成長できる余地があるということも実感しています。町の温浴施設は老若男女、本当に様々な人が訪れるので、その方々と向き合っていくことが自分の成長に繋がっています。そうした日々の営みが本当に喜ばしいです。