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Interview

及川貴史 / 野田良香

造り手として芽生えた地域や人への責任

インタビュー

Interview

 今回は、岩手県紫波町で、りんごを原料として醸造するハードサイダーブランド『Green Neighbors Hard Cider』の及川貴史さんと野田良香さんに取材をしました。

 『Green Neighbors Hard Cider』は、豊かな自然と暮らしやすい町を大切にする、オープンマインドな人々(Green Neighbors = 緑の隣人)に、日曜日の穏やかな空気感を詰め込んだハードサイダーを届けるブランド。紫波旧庁舎の跡地に建てられた、地域の文化と独立性を重んじたサイダリーを中心に、未来へと繋がるサイダーコミュニティを目指しています。

 及川貴史さんは様々な職を経験した後、『Green Neighbors Hard Cider』の醸造長としてハードサイダー造りを始動。一方、野田良香さんはショップマネージャーとして ”緑の隣人” へハードサイダーを届けています。インタビューでは、仕事だけではなくプライベートでもパートナーであるふたりの幼少期から現在に至るまでを辿り、これからの暮らし方や生き方を探求しました。

  • TO : 及川貴史 (Green Neighbors Hard Cider 醸造長)
  • YN : 野田良香 (Green Neighbors Hard Cider ショップマネージャー)
  • AS : 佐々木新 (人 to ひと 編集長)

並べられて上から良し悪しを決められたくなかった

AS : 及川さんの幼少期について教えてください。

TO : 生まれは岩手県花巻市、物心がついた頃には奥州市水沢で暮らしていました。父は電力会社のサラリーマンで県内転勤が多く、そのたびに暮らす場所も変わりました。青年期も含めると一番長く暮らした場所は、約12年間を過ごした大船渡市です。幼少期は周りの空気をよく読むこどもだったと聞いています。大人の輪の中に入っても、空気を壊すようなことはしない。友人は引っ越しのたびに途切れてしまうので、いるようないないような感覚です。小学生の頃に両親が離婚していますが、出張が多い父だったので僕は中学生になるまで全く気がつきませんでした 笑。

AS : 父親との記憶で心に残っているものはありますか?

TO : 離婚しても父はたまに顔を見せにきていました。いま振り返ると、こどもたちに会いにきていたのでしょうね。日曜日に父と泣きながらキャッチボールをしたことをよく覚えています。当時はまだ離婚したことも知りませんでしたが、一緒に遊ぶことはあまりなかったので、とても嬉しかった記憶があります。

AS : 学生時代はどのように過ごしましたか?

TO : 小学生の頃はサッカー少年団に入っていました。その後、チームプレーが苦手なことに気づいて卓球部に入るのですが、未経験ながら地域予選では優勝、県大会でもベスト8ぐらいまでいくことができました。卓球に限らず変に器用なところがあって、何でも結構良いところまで到達できるのですが、県大会で優勝するような本当の強者に当たると、すぐに諦めてしまう性格でした。当時の僕にはそれを乗り越える向上心のようなものは湧き上がってこなかったのです。適当にやるくらいが心地良く、言ってみれば井の中の蛙だった記憶があります。
高校に進学しても卓球を続けるのですが、その頃には熱意を失っていて、大会に一度だけ出場してすぐ辞めてしまいました。中学生の頃から少しずつやんちゃな部分が出始めていて、勉学にもスポーツにも真剣に打ち込むことができなくなっていたのです。この時期から何か消化されないものが、自身の中に鬱積として溜まり始めていました。学校にも意味も見出せなくなって、毎日欠席していたら退学勧告を受けて、高校2年に上がる頃には退学の手続きをしました。好きなことをして生きていこうと切り替えたのはこのタイミングです。

AS : 高校を中退してからどのような生活をおくっていましたか?

TO : 当時、自動二輪車が好きだったので、バイク屋を突然訪ねて「僕を雇ってください」とお願いしました。いま振り返ると、どこの馬の骨かもわからない金髪の若者をよく雇い入れてくれたと思います。その後、違法改造をしていた中型バイクを店主に発見されて、「直す」もしくは「辞職する」という二択を迫られます。当時の僕は、悩んだ挙句、「直せません」と言って辞職する道を選んでしまいます。それから土木系のアルバイトを始めましたが、すぐにやり方を覚えて、仕事にのめり込んでいきました。しかし、次第に集団行動への嫌悪感が頭をもたげてくるようになっていきます。なぜいつも並べられて、上から良し悪しを決められなければいけないのだろうと。自分が行った分だけしっかり返ってくる仕事がしたい、という想いが沸々と湧くようになってきたのです。そのタイミングでトラックの運転手の仕事に誘われました。一事業主としてトラックを自腹で購入して、仕事量に応じてしっかり返ってくる仕事で、現状に不満を抱いていた僕にはちょうど良い道だと思えました。

AS : エネルギーの捌け口が仕事へ向かっていったのですね。その頃には遊びも落ち着いていたのですか?

TO : 自分が事業主となり自身の立ち振る舞いで全てが評価されると理解した瞬間から遊びは必要ないと考えるようになりました。睡眠時間を削ってやれば勤務した分だけお金になる。身体を酷使しても止める人もいなかったので、2年間くらい寝ずに4日間連続で稼働するという無茶な働き方をしていました。しかし、21歳くらいの頃、突然事故を起こしてしまいます。大事故ではなく怪我も軽傷だったのですが、人身事故扱いになってしまい、1年間の免許停止処分を受けました。もちろんすぐに働ける訳もなく、トラックを売却せざるを得ませんでした。当時は凄く腐りましたね。やり甲斐を失ってしまったのですから無理もありません。それからリフォーム会社に入って、作業員を経てから、広報の仕事を任されました。初めてネクタイを締めて、広告代理店、新聞社、テレビ関係の方々と仕事をしたのです。しかし、このままでは物足りないと感じて、苦手な営業職に就かせてもらいました。

AS : 当時、独立したいという欲求はありましたか?

TO : 独立は志していましたが、しばらくは何をしたいかよく分からなかった時期でした。ただ、通っていた飲食店の空気感に憧れを抱いて、独立するならその方面だなという感覚はありました。その想いがある程度明確になってから、次のステップとして飲食店を自分で運営していくマネジメント方法と資金集めの為、ビジネスホテルチェーンを運営している『スーパーホテル』で働き始めました。ビアバーに出会ったのは『スーパーホテル』の業務委託契約が満了を迎えた後のことですね。当時は都内でも店舗数が少なく、全部巡って「これはいつかみんなを魅了していく」と確信しました。しかし、クラフトビールという言葉すら浸透していない時代だったので、専門店ではなくビールを扱う飲食店が妥当だろうと思いました。そこで、クラフトビールとの普遍的な組み合わせとして、青森県弘前市で焼き鳥屋を始めることにしました。そのお店では、当初イメージしていた、こだわったビールと焼き鳥の組み合わせは実現できたのですが、想定していたよりも焼き鳥の奥が深くて、すんなりとクラフトビールの道へ進むことはできませんでした。

AS : 焼き鳥屋を経営していた頃、クラフトビールという言葉はどのくらい社会で認知されていたのでしょうか?

TO : 少しずつ浸透し始めていて、都内では専門店が増えている状況でした。その頃には資金も貯まっていたので、盛岡でクラフトビールの専門店『HOPPERS』を開きました。『HOPPERS』では、造り手を招いて飲み手と交流する場を設けていましたが、彼らと直にふれることで、いずれは造り手として、届ける人になりたいと思うようになっていきました。





何事もやると決めたことはやり通す

AS : 良香さんはどのような幼少期を過ごしましたか?

YN : 生まれは東京の大塚、幼少期は埼玉県朝霞市で暮らしていました。5歳下の双子の弟がいて、母が料理をしている時、ベビーラックを揺らしてふたりをあやしていました。賃貸で住んでいた家の前には畑があって、その脇に生えていた野蒜をとって食べていた記憶があります。味噌をつけたり、たくさん採れたら母に醤油漬けにしてもらったり。私たちの借家の並びには、同じ大家さんが建てた家が何棟かあって、「お砂糖なくなったからちょっと貸して」というようなご近所付き合いがありました。

AS : ほど良い距離感を持った隣人コミュニティという意味では、現在の暮らしとも似ているところがありますね。小さい頃は何をして遊んでいたのでしょうか?

YN : 室内でおままごとをして遊ぶというよりは、外で活発に遊ぶこどもでした。

AS : 良香さんは面倒見が良くてしっかり者の印象もあります。

TO : 傍にいるとよく分かりますが、びっくりするような天真爛漫さがあります。急に突き抜けるような思い切りの良さがある側面と、周りをよく観察して面倒見が良い側面、ふたつを併せ持っていると思います。

AS : 学生時代はどのように過ごしましたか?

YN : 小学校高学年で165センチメートルくらい身長がありましたので、バレーボール部に勧誘されて部活に打ち込みました。家の裏庭にコンクリートの壁があって、休日は壁打ちをしていた記憶があります。中学2年生の後半くらいから膝が外れる癖がついて、アクシデントもあり手術が必要な状態に陥ったのですが、それでもバレーボールに携わりたくて、高校3年間はマネージャーを務めました。プレイヤーとして活動することは難しかったのですが、サーブの練習だけはしていて、高校最後の大会でピンチサーバーとして出場しています。卒業後の就職面接では、「何事もやると決めたことはやり通す」ことが長所であり、短所でもあると自らを述べるくらい、一直線なところがあると思っています。

AS : 高校卒業後はどのような進路に進んだのですか?

YN : 双子の弟がいたので、ふたりの学費の為にも高校卒業後すぐに就職をしました。初めての就職先はアパレル会社で、伝票整理や展示会の準備などの事務職をしていました。3年ほど働いて営業職への誘いを受けたタイミングでこどもを授かりました。出産後、会社に復帰しようと思っていたのですが、当時の元夫がリストラにあってしまい、彼の故郷である青森県弘前市へ戻ることになりました。その後、元夫の実家で義父母とともに暮らして、こどもがある程度大きくなってから、ジュースやシャーベット、シードルなどのりんご加工品をはじめとした地域特産品の開発・販売をしている、青果市場の子会社で14年くらい働きました。最初こそ事務職だったのですが、営業の仕事も任されるようになり、海外への流通にも携わりました。ただ、周囲は生活の為だけに仕事をするような人が多く、その職を極めようとする人が少数だったこともあり、フラストレーションが溜まっていました。そのような状況下で、青森県弘前市の農業ベンチャーの社長と出会い、彼のものづくりに込められた想いに感動して、転職することにしました。

AS : 及川さんとはその農業ベンチャーで出会うことになるのですね?

YN : 最初に会ったのはお客さんとして彼の焼き鳥屋を訪れた時なのですが、偶然、私が勤務していた農業ベンチャーの研修生として貴史さんが現れたのでびっくりしたのを覚えています。貴史さんはものづくりの本質的な話をするので、これまでの常識を覆されたという感覚がありました。

AS : 良香さんはすごく真っ当に社会を生きてきたという印象があります。対して、及川さんはさまざまな挫折と経験を味わいながら、言わば社会から少しはみ出しながらカウンター的に生きてきた印象です。きっと及川さんの多角的な世界の見方、既成概念を外側から見るような、ものごとへの本質的な眼差しに惹かれたのではないでしょうか?

TO : 僕は他人のルールから外れて生きてきたのですが、良香さんは良い意味で既存のルールの中で生きてきた人です。作業の為の作業をしている人たちを見て、「純粋にものづくりを追求するべきだし、もっと自由でいい。自分がどう考えて、どう生きるかが全てで、誰かに強要されることではない」と話したと思います。

YN : そのような貴史さんの視座や生き方に感化されて、『Green Neighbors Hard Cider』の拠点である岩手県紫波町へ転居しました。転居届を出した1週間後には紫波町役場の臨時採用へ応募をしましたが、何の縁もゆかりもない土地だったこともあり、役場で働くことが地域を知る良い契機になったと思っています。





造り手として芽生えた地域や人への責任

AS : 現在『Green Neighbors Hard Cider』で醸造長を務めている及川さんですが、オーナーである星洋治さんとは『HOPPERS』で出会ったそうですね。

TO : はい、最初はお客さんとして出会っています。関係性に変化が生まれたのは、盛岡の小型商業施設『十三日』がリノベーションされる際に、施設内に「ブルワリーをつくりませんか?」と星さんから提案を受けたことからでした。その時は準備不足で実現しませんでしたが、星さんとは何か一緒に事業を始めたいと思っていました。そのようなタイミングで、当時一緒に『HOPPERS』を運営していた元妻が急に家を出て行ってしまったのです。ひとりでは運営できないスタイルだったこともあり、フードの数を抑えて、よりビールに特化した専門店としてリニューアルオープンをしました。最初は樽のみでしたが、ショーケースを置いて缶ビールやアメリカのハードサイダーも取り扱うようになっていきました。

AS : 造り手として、クラフトビールではなく、ハードサイダーへ意識が向いたのは何か契機があったのでしょうか?

TO : 当時、宮城県気仙沼市に新しいブルワリーが建つことを知り、事業説明会に出席しました。そのプレゼンテーションで、「地元の素材を副原料で使用して、地元のビールにしていくことは全く考えていない。いわゆる工業製品として世界に認められることによって、地域貢献をしていきたい」という話を聞きました。そもそも原料はすべて輸入に頼り、副原料だけ地元のものを使用しているブルワリーが「これがローカルの僕らのビールです」と謳っていることに違和感を感じていたので、すっと腑に落ちた感覚がありました。それから自分の周りの状況を整理すると、岩手にはハードサイダーの原材料として使用できるりんごが豊富にあることに気がつきました。これなら「僕らのハードサイダー」として胸を張って造れると確信したのです。

AS : 個人プレーが向いていると感じていた及川さんですが、いまの『Green Neighbors Hard Cider』ではチームプレーを大切にしていますよね。年齢を重ねるうちに、自分の限界もわかるようになって、誰かに任せる許容範囲も広がってきたのでしょうか?

TO : 基本的に僕自身は細部まで気になってこだわりたいタイプなのですが、飲食店を約13年くらい経営してきた中で、やりごたえと同時にひとりで可能な限界も感じるようになっていきました。変に器用貧乏なところがあるので、若い頃は、時間と体力さえあれば何でもやれるという自信があった。しかし、良い意味で年齢を重ねることで自分の中で凝り固まっていたものが柔らかくなって、チームプレイができるようになってきたのかもしれません。

AS : 『Green Neighbors Hard Cider』のタップルームやポップアップで、多くのまちの人々に会うことが多くなってきたと思いますが、事業を始める前のお客さんのイメージから何か変化はありましたか?

TO : 事業を始める前に思い描いていたまちの人、飲み手、ファンの方々のイメージとは違って、いまは自分で見えないぐらいの物理的な距離を超えて拡大している感覚があります。始める前は、自分たちのプロダクトが遠くのお店まで届いていく想像はしていたのですが、リアルなイメージとしては地域の人々が集っている光景しか思い浮かべていませんでした。しかし、いまはプロダクトだけが遠くに行っても、『Green Neighbors Hard Cider』の世界観を楽しんでくれる人がいて、僕たちも気持ちだけは一緒に楽しんでいる、というような感覚が強いです。

AS : まちを超えてなだらかに広がっているようなイメージですかね。実際、プロダクトを造って遠くまで届けられるようになったことが影響しているのでしょうか?

TO : そうですね。缶ひとつとっても、紫波のタップルームと同じ空気感を詰め込んで送っているので、ブランドの世界観そのままを遠くにいる飲み手に届けられているという手応えがあります。また、昔と異なり、いまはSNSがあるので、リアルタイムのリアクションに対してすぐコミュニケーションが取れるということも大きいと思います。

AS : 造り手となって変わった意識はありますか?

TO : 造り手となって、地域を背負う感覚が芽生えてきました。プロダクトを遠くまで届けられるようになったことで、自分の周りの「もの」や「こと」を言葉で説明する機会が増えたことが大きいと思います。そのような状況だと、自ずと ”紫波” という地を意識することになります。

YN : りんごや他の果物の生産者さんから直接仕入れているので、彼らの分まで美味しいハードサイダーを造りたいという気持ちもあります。関係性が近いからこそ、より一層その想いが強くなっているのだと思います。

TO : 誰かに 「あなたにとって 『Green Neighbors Hard Cider』とは?」と尋ねられたら、その答えは日々変化していくと思うのですが、いまの僕の答えは「責任」です。『Green Neighbors Hard Cider』を立ち上げてから様々な人たちに携わってもらい、その関係性も日々太くなっています。いまは ”紫波” を名乗っていく責任と、ファンの方々や取扱店の皆さんに対しての責任を強く感じています。期待を裏切ってはいけないと萎縮するのではなく、より良いもの造ろうという意識です。

AS : 関係性が深くなっていくとその場所に対する帰属意識も強くなってくると思うのですがどうでしょうか?

TO : 単純に住人として暮らしていた時に比べると、仕事を通じて関係性が深くなるにつれてこの場所への愛着が湧き、帰属意識も強くなっている感覚がありますね。





補完し合うパートナーの関係性

AS : 紫波で暮らし始めてから約3年間が過ぎましたが、何か気づきや心境の変化はありますか?

YN : 紫波での暮らしは幼少期に住んでいたご近所付き合いを思い出します。引っ越してきた当初、隣人に「貴史さんと喧嘩したらうちに来ていいからね」と言われたのをよく覚えています 笑。そのようなこともあって不安よりも心が躍るような期待感の方が大きかったです。

TO : これまでの僕だと、同じ場所、同じ人と長時間一緒に居ると窮屈になることが多かったのですが、いまはこの場所を変える気がさらさらないですね。周囲の人が好きだからこそ、居心地が良いのだと思います。以前までの思考だと、その土地でうまくいかなくなったら、また違う場所へ行けば良いと単純に考えていました。その判断が正しいこともあるかとは思いますが、少なくともいまはここでの暮らしを失うのが怖いという感覚があります。これまでは個人プレーで迷惑をかけるのも自分ひとりだけでしたが、関係性が広く深くなっていることもあって、失う恐怖が芽生えているのだと思います。

AS : 失う恐怖があるということは裏返すと幸せだという証ですよね。個人的には、ここの隣人によるコミュニティは、距離感が絶妙だと感じています。変にお節介をされる訳でもなく、応援してくれる人がすぐ近くにいる感覚。根底にそれぞれの個性を尊重し、リスペクトする感覚があるせいかもしれません。異なる職種でライフスタイルも少しずつ異なる人たちなので、安心感だけでなく刺激もあります。

TO : 身体的な変化として、いまの家で暮らすようになってからアトピー性皮膚炎が発症しなくなりました。断熱性が良いこともあり、冬場の乾燥を防いでいることと、良香さんがパートナーとなり健康的な食生活をおくることができているからだと思います。

AS : おふたりは仕事でもプライベートでもパートナーとして支え合っていますが、お互いをどのような存在だと感じていますか?

YN : 私は不器用ということもあり、貴史さんには様々なことをストレートにぶつけています。溜め込まずに何でも吐き出せる相手と言えばよいでしょうか。

TO : 良香さんはそもそも吐き出し方もわからないタイプだったと思いますが、仕事もプライベートも一緒となると相性が良くないとやっていけないですよね。あからさまに頼るということは殆どないですが、これまで「もっと自分がしっかりしなければいけない」と背負ってきたものが彼女といると自然に和らいでいく感覚があります。

AS : 以前、及川さんから良香さんの長所として「手があたたかい」と聞いたことがあります。その言葉が印象的でした。もちろん、フィジカルとして実際、手があたたかいということも含んでいるのかもしれませんが、実際良香さんと対峙すると、人間の資質としてのあたたかさを持っている人だなと感じました。及川さんは幼少期から様々な経験を経て社会を斜めから見るような生き方をしてきましたが、良香さんは真っ直ぐ生きてきて、だからこそ、傍にその存在があるだけで幸せが担保されている感覚があるのではないでしょうか。歪みがあることで見える本質的な世界の見え方も大切だと思うのですが、本当の豊さはそれだけでは得られない。おふたりはお互い足りないものを補いあっている理想的なパートナーだと感じます。最後に、将来的に何かやってみたいことがあれば教えてくれますか?

YN : 貴史さんと一緒にいると、何でも出来そうな気がしてくるんです。これからも止まることなく様々なことに挑戦するだろうなと思っています。

TO : 『Green Neighbors Hard Cider』の事業規模は今後も拡大していくだろうと考えています。大木がひとつの根から成長して、幹となり枝葉に分かれていくように、成長していく過程で何かしら派生したものが出てくることにも期待しています。包括的にそれらがより密接で太い関係性になっていく光景を見て、自分自身が何を思うのか、それが未来の楽しみのひとつですね。