slide

slide

Interview

菊地 十郎 / 坂口 奈央

過去から何を受けとり、何を未来へつなぐのか

インタビュー

Interview

 今回取材したのは、岩手めんこいテレビのプロデューサーとして勤務している菊地十郎さんと元岩手めんこいテレビのアナウンサーで、現在は退職して博士号を取得、研究者として活動している坂口奈央さんです。

 ご夫婦であるふたりは磁石の両極のように正反対の性格をしています。十郎さんは決して口数が多いタイプではなく、あまり自分のことを話しません。感情表現も抑えめで、人の話を聴いている方が好きという印象です。反対に奈央さんは周囲のことに気を配りながらも明瞭に言葉にしていきます。感情表現も豊かで、場を華やかにする。ふたりは周囲の人々にとって、太陽と月のようになくてはならない存在ですが、光の照らし方が異なります。 ただ、異なることが相補性を伴っていて、相乗効果による、夫婦としての、あるいは人と人が対峙する中で生まれる豊穣さとはこういうことと示すような、新しい豊かさのシンボルを体現しているように感じます。

 取材するにあたってテーマに据えたのが、「コミュニティの中で生きるとは?」という問いでした。ふたりの暮らしの中で帰属するコミュニティから何を受け取っているかを探ることで、ふたりの豊かさが浮かび上がってくるかもしれない、とそう考えました。その為に、 ふたりの過去を知り、それぞれの人生で得てきたもの、そして、反対に失ってきたものを知ろうと思いました。それを理解することで、ふたりが欲しているもの、コミュニティによって与えられるものの本当の価値がようやくわかってくるような気がしました。その探求は人間がいつの時代も絶えず行ってきた、“過去から何を受けとり、何を未来へつなぐのか”という壮大な物語へと合流していくことでもあるかもしれません。

  • JK : 菊地十郎 (岩手めんこいテレビ プロデューサー)
  • NS : 坂口奈央 (研究者)
  • KA : 有原寿典 (くらしすた不動産デザイン室)
  • AS : 佐々木新 (人 to ひと 編集長)

まだ見ぬ山の向こうへ

AS : 幼少期の十郎さんはどのような子どもだったのでしょうか?

JK : 岩手県の南に位置する衣川村という山、川、田園が広がる里山で育ちました。三人姉弟の末っ子ということもあり、結構甘やかされて育ったと思います。小さな時から今の自分をもうひとりの自分が見ているような、客観性をもった子供らしくない子供でした。父が村長を務めていたこともあり、お酒を飲む場にひとりでいることも多く、状況的に客観性が育ちやすかったのではないでしょうか。もちろん、夏は一日中川で魚釣りをしたり、冬は近所の坂道でソリやスキーをして遊んだり、外にいて勉強はしない、子供らしい一面もありました。勉学に励み始めたのは、中学・高校生くらいの頃で、いざ向き合い始めると結構楽しかった記憶があります。当時部活で取り組んでいた野球も同様に、できなかったことができるようになるのは楽しく、自分がどこまで行けるのか常に夢想しているような少年でした。

AS : 今回、衣川にご一緒してその感覚が少しわかったような気がします。山に囲まれているせいか、空を見上げると、この山を越えた世界はどこまで広がっているのだろう、と自然に好奇心が湧いてきました。

JK : 大人になっていくにしたがって、まだ見ぬ山の向こうへ、どんどん視野が広がっていく感覚がありました。その好奇心の原点はまさに山の先には何があるのだろう、という想いからだったと思います。

KA : 「山の向こうには何があるのだろう」という想像力がとても面白いですね。完全に閉ざされている訳ではなく、想像できる鍵はあったということですね。

JK : 父は若い頃に世界中を回っていたので、事務所に行くと世界各国のお土産を渡されました。きっとそれらが想像の鍵になったのだと思います。

AS : 実家には多くの書物蔵書がありましたが、本は外の世界との入り口にはならなかったのでしょうか?

JK : 幼い頃はあまり読みませんでした。貪るように読み始めたのは大学生になってからです。

AS : 大学生の頃に書かれたノートを見せてもらいましたが、非常に詩的かつ哲学的な内容でした。「テレビという媒体の本質は何か?」ということが記されていたり。

KA : 大学生の頃からテレビに興味があったのですね?

JK : 最初、大学では経営学を学んでいましたが、社会にふれる中でマスコミュニケーションに興味を持ち始めて、途中からメディアについて学べる学科に入り直しました。当時は1980年代前半くらいで、テレビには勢いがあり、いくつかの作品を見て心を動かされました。

AS : ノートに書かれていた中で印象深かったのは、「テレビは普通に生きている人たちの非日常を映し出すのに適したメディアである」というような言葉でした。

KA : メディアだと新聞やラジオ、あるいはジャーナリストという選択肢もあったと思いますが、テレビの世界に入ったのはどのような理由からだったのでしょうか?

JK : 当時は社会との繋がりを一生懸命探してもがいていたような気がします。その中で、自分が表現するのに最も適しているのがテレビだと感じました。

AS : 村長をされていたお父様の影響は大きいように思います。傍で見ていたからこそ、社会とあるいは世界とどう接続すべきか、考えざるを得ない状況だったのではないでしょうか。

JK : 幼い頃から進路について両親から何も言われなかったので、自分で考えなければいけませんでした。そんな環境でしたから、小さな時は怠けてしまうこともあり、独りでもの想いに耽ったりすることも多かったと思います。自分で何を成し遂げたいのか漠然としながらも、興味を持っていたメディアの道へ進んでいきました。

KA : 十郎さんの場合、モチベーションは凄くシンプルで、自分と社会が接続できるということが重要だったのではないでしょうか。勉強も遊びも仕事も全部。そのような意味では、十郎さんが幼い頃に感じた、まだ見ぬ果ての世界を想像することと社会と接続することは非常に親和性があると感じます。果ての世界を想像することで、もうひとつあるとしたら、「山の果てには何があるのか」という好奇心が冒険家へ進む可能性もありますが、そうはならなかった。だから、社会とどのようにコミュニケーションをはかるのかを重要視した、お父様の影響が大きかったのではと思います。

AS : 日常的に行っているランニングも、十郎さんの中ではコミュニケーションのひとつとして捉えている側面があるのだと思います。「大会などで大衆の前を走ることによって、ランナーもそれを応援する側もパワーを交換し合っている。ひとりで走ることもランニングの良さのひとつだけれども、走る人と走らない人の中でもコミュニケーションが生まれる」ということを十郎さんは僕に教えてくれました。やはり、コミュニケーションが十郎さんの中で大切にされていることなのだなと。

JK : たとえば、ひとりで走っていてもランナーとすれ違うと挨拶を交わし、2、3日続けば顔見知りになる。それが大会になると、ランナーすべてが仲間のような感覚になる。ゴールを目指す気持ちは同じだから、心身ともにシンクロしていく。

AS : 十郎さんはランニングマシーンで走るのがあまり好きではないと言っていました。街とか空間に入っていくだけでコミュニケーションになるから、きっと単純に走ればいいという訳ではない。やはり誰かとコミュニケートしたいというのが根底にありますよね。十郎さんが面白いのは、そこで自分が中心にいなくても良い、ということだと思います。周りが楽しそうにしているのを見るだけで幸せというのが伝わってくる。

JK : 全然知らない人の中にひとり混ぜられても平気です 笑。

KA : それが十郎さんならではの関わり方なのでしょうね。たとえば僕がメディア関係の仕事をするとしたらジャーナリストを目指すと思います。自分が追いたいものをどこまでも追求して喜ぶタイプ。でも十郎さんはそうではない。コミュニュケーションするとか、関わり合うこと自体に意味を見出しているから、非日常を切り取ったとしても、日常にしっかり接続している。




心体と人

AS : コミュニケーションを行う上で大切にしていることはありますか?

JK : 一番は同じようなことを考えている人が周りにいる環境が大切だと思っています。野球でもラグビーでも、皆で一つ目標に向かって突き進んでいく中で交わされるコミュニケーションは心地良い。

KA : 趣味や娯楽であれば整えやすいかと思いますが、例えば、仕事でなかなかコントロールできない状況ではどうしていますか?

JK : 記者時代は、我は我は、という感覚でやっていました。その当時はまだ三十代前半で生意気だったのです。ちょうど、ひとりで映像も撮って編集して記者の仕事もやるというビデオジャーナリストの走りの頃でした。自分で企画書も書いて、1匹狼みたいな感覚でしたね。

NS : 撮影してくるものも激しかったです。菊地十郎を雁字搦めにしておくのは無理だと上司からは判断されていて、マラソンを始める契機となった石垣島の取材にも行きました。それ以来、県庁の方々への恩義ということもありますが、心としての繋がりを保ちたかったから毎年石垣島のマラソンには4日間休みを取って、プライベートで参加していました。当時は携帯もなかった時代なので、いつの間にか取材に出て捕まらなかったり、帰ってきてもフリースペースで原稿を書いていたり、一匹狼のようでした。

KA : 社内では一匹狼に見えていたと思いますが、俯瞰して見ると、社会とコミュニケーションをしっかりとっていますよね。十郎さんの撮影対象としてどのようなところに重点を置いているのですか?

JK : やはり人ですね。本当に何気ない近所にいるようなおじいちゃんやおばあちゃんを取材したい。

AS : 大学時代に書かれたノートの言葉から全くぶれていませんね。あのノートの言葉はとても強いものでした。曖昧な言葉があまりなく、迷いが感じられなかった。行き場のないものは詩のような表現になっていたことも興味深いことです。普段はあまり口数が多くない十郎さんだからこそ凄く面白かった。

KA : ノートに書くことは自分の考えを整理するということが大きいのでしょうか?

JK : 普段考えていることを言葉にしておかないと明確にならないと思っています。言霊ではないけれども、書き出すことによって自分自身を明瞭に捉えられる。

KA : 十郎さんは「心体」というものをとても大事にしていますよね。もっと言えば、「心体」と「人」。書くことは「心体」だと思います。書き出して見ることによって、心に定着させる行為が自分は必要だということに非常に納得しました。その行為を経てから人に関わっていく。

AS : ノートに書かれていた強い言葉で本質がある程度見えている人間なのに、他者と向き合った時には言葉をあまり発しようとしない。十郎さんのスタンスとしては、まず相手の言葉を待つ。きっと言葉への信頼と危うさの両方を意識として持っているのではないかと勝手ながらそう思っていました。言葉は使い方によっては暴力性を孕むから、自分だけのノートに書く言葉と人に対してかける言葉を使い分けているんだなと。

JK : 基本的にノートは人前に出すものではありません。何気ない一言でも物凄く人を励ますことができる言葉がある反面、傷つけてしまう言葉もあると思うので、とても気をつけて使っている。だから万人に同じ言葉は使えない。ひとりひとりと話をしている中で言葉を選ぶ。表現が難しいのですが、判断を下すことが必ずしも必要ではなくて、その場をやり過ごすような場面があっても良いのではないかと思っています。だから言葉を飲んでしまうことが多いのです。

AS : 言葉の使い方ひとつとっても十郎さんらしいコミュニケーションを垣間見たような気がします。




いつも二番手だった幼少期

AS : 幼少期の奈央さんはどのような環境で育ったのですか?

NS : 1975年に静岡県で生まれて、二人姉弟の姉として育ちました。高度経済成長が落ち着き出し、公害が騒がれ始めた頃です。都市を中心に核家族化が始まっていたので近所付き合いも薄く、コミュニティがあまりない環境でした。富士山の噴火に備えて、幼稚園の頃から防災訓練が徹底されていたのを覚えています。だから災害に対しては一定の意識がありました。

AS : どのような子供だったのですか?

NS : 常に2番手という子供でした。1番になりかけると何故かなれない。たとえば、幼稚園のマドンナと言われる鼓笛隊の指揮者になる予定だったのですが、本番1週間前に前歯が外れて笛が吹けなくなって幼なじみに変わってもらいました。小学校3年生の頃には、転校した直後にも関わらず学級委員長に立候補して、先生からは可愛がられるけども同級生には苛められたりしました。積極的に自分からコミュニケーションをとろう動くのですが、かえって目立ってしまい反感を受けてしまう。そのようなことがあったから、常に周りを気にしながら生きてきました。

KA : コミュニティの中でも奈央さんの気の遣い方は凄いですよね。

NS : 周りが常に怖いのです。嫌われたくないから。だから常に周囲の目を気にしてしまいます。

KA : 常に2番手という意識があるということは、ずっと競争に晒されてきたということの裏返しでもあると思います。なぜ1番にならなければいけない、と考えるようになったのでしょうか?

NS : 「皆と同じことをしていても意味がない」と言われ育てられてきたことが大きいのかもしれません。親は私に大きな期待をかけていて、小さな頃はピアノを習っていました。でも、それがとても苦しかった。自分にあっていなかったのです。東京藝術大学に入学することが大前提としてあり、指を守るためにボールを使った運動も禁止され、歌謡曲も聴かないようにと言われていました。ある意味、英才教育です 笑。ピアノの練習で一週間が雁字搦めの状態で、学校に行けば苛められる。変化が起こったのは、バスケットボールに出会ったことでした。初めて誰かと無条件に繋がることをバスケットボールを通じて体験したのです。その頃から私の目標は自立することになりました。

AS : バスケットボールの競技自体が純粋に楽しかったということもあると思いますが、奈央さんの周りに仲間ができたから、新しい世界へ意識が開いていったのでしょうか?

NS : そうなのだと思います。高校3年間は本当に楽しかった。ピアノを習っていたときに親からよく言われていたのは、「お金がないから」でした。だから、きっと学費を出してもらうといろいろ言われると思い、自分でお金を稼ぐ為に新聞配達を始めました。

KA : それほど家を出たかったのですね。

NS : とにかく出たかったのです 笑。

AS : 外に出たいというのは親からの強制から逃れたいということもあると思いますが、順位を決めてしまう競争という枠組みからも逃れたいという意識も働いていたのでしょうか?

NS : バスケットボールではチームメイトは仲間になりますが、ピアノは友人ではなくライバルになってしまいます。私はコンクールでは結局1番にはなれなかった。おそらく私は承認欲求が強い人間で周りから認められたかったのでしょうね。

KA : バスケットボールをやっていた時は1番になりたいとは思わなかったのですか?

NS : 不思議なことに一切ありませんでした。

KA : その意識の移り変わりが面白いですね。1番になりたいという意識が生まれる理由として、その人間をひとりの人として認めるということイコール、何かに秀でていないといけないという周りからの強い圧力のようなものがあったのかもしれません。そのような傾向が薄くなったのは本当に最近になってからですよね。「世界に一つだけの花」ではないですが、ナンバーワンではなくオンリーワンが大切だということが世間でも浸透し始めた。もちろん、それによって分野がばらけてくるので、孤独になるという側面もありますが。

AS : 競争させることが当たり前の教育という時代背景もありますが、奈央さんの置かれている環境が精鋭化されていった理由としてどのようなことが考えられますか?

NS : 私の人格形成において母に対するコンプレックスは大きな影響をあたえています。私の父が3歳の時に父親を亡くしてかなり苦労していることもあって、母はとにかくひとりでも生きていけるようにと私に学歴をつけさせたかった。父がトラック運転手で家にほとんどいないということもあり、躾や教育に関しては母の役割となっていました。確か中学1年生か2年生くらいの頃、母が働いていた料亭に行ったことがありました。学校を早退して家の鍵を取りに行ったのですが、着物を着た母は本当に美しかった。家の中では見たことがないその姿に私は衝撃を受けました。それ以来、私は母に自分のことをもっと省みて綺麗でいて欲しいと思うようになったのですが、家では自分のことはさて置き私の教育に熱心だった。




私はこのままでは終わらない

AS : その後、親元を離れて大学へ通う奈央さんが、テレビ業界を目指す契機はどのようなことだったのでしょうか?

NS : 大学に入学してからも新聞配達をしていましたが、朝3時に起きて配達にまわり、勧誘も行うという日々でした。毎朝、折り込みをするから指紋にインクが入ってこれが半年以上落ちない。思い描いていた華の大学生活というものはないわけです。自然と「私はこのままでは終われない」という気持ちが湧き上がってきました。そんなある日、朝の新聞配達が終わってテレビをつけたら、めざましテレビで『奈津子でございます』という番組が放送されていました。華の女子大学生であるはずの私は手も汚いし、大学にも行ける状況ではない。対して、テレビの中の小島奈津子さんは、女性としていきいきとしていました。私もこのような世界で生きたいと思い、「2年間で新聞配達を辞めます。残りの2年間は貯めたお金で自由にさせてください」と親に宣言しました。

JK : 彼女が面白いのは、何をするにも必ず宣言から入ることです。日常生活においても、最初に宣言をして、自らにプレッシャーをかける。そうでもしないと動き出せない。

NS : きっと、自分で掴み取らないと不自由になってしまうという固定観念があるのだと思います。ハードルが大きくないと動けなくなってしまう。

KA : 僕は自らにハードルを設けることから回避してしまうタイプです。事前に何かを掲げると、それに対するズレが生じて一生迷ってしまう。また、目標を掴むと次の目標が生まれる、という永遠のいたちごっこになってしまうということもあります。

NS : だから永遠に宣言します 笑。 ひとつ掴んだら次はハードルを一個上げていく。結婚をして「菊地奈央」となり、以前よりは女性性を意識するようになった。一方で「坂口奈央」の思考は、社会の競争に勝ち抜くといった男性性の部分が大きいです。家の表札も「坂口を入れて欲しい」とお願いしましたし、個として、男としての「坂口奈央」を持っていたい、と思っています。ただ、そのことで息苦しく感じる時もあります。

AS : アナウンサーを目指すということは、当時の奈央さんにとって、ハードルを上げるという大切なことだったのですね。それからスムーズにアナウンサーになれたのでしょうか?

NS : その後の2年間は日本放送協会でバイトをして、私はマスコミで働くイメージを築いていきました。ですから初めからアナウンサーになりたい、と明確に思っていた訳ではありません。もちろん、小島奈津子さんのようになりたいとは思っていましたが、なれなくてもマスコミを通して様々な世界を見たいと考えていました。そのような欲求が高じて、新聞配達でお金が溜まってきた頃から徹底的に海外に一人で行きました。そこで様々なものを吸収しようと、とにかく一人でいろいろ見る、英語で話す、自身を鍛錬するというようなことをしました。ベトナムでは本気で人攫いに遭遇しましたが 笑。

AS : 岩手めんこいテレビに入社する契機は何だったのですか?

NS : テレビに限定していた訳ではなく、新聞社、ラジオなどの試験を受けましたが、全然受かりませんでした。めんこいテレビの試験を受ける契機となったのは、最終の面接で落ちた静岡のテレビ局から「頑張れ」という連絡をもらったことでした。これには実は親が動いていて、「うちの娘が最終で落ちたのは何故ですか?」と聞きに行ったからです。その頃、ちょうどめんこいテレビの方から「試験を受けませんか?」という連絡がきました。これは何かの縁かもしれないと思いました。




被災した人たちにとっての復興を
彼らの視点で解き明かしたい

AS : 奈央さんのキャリアの中で驚くべきこととしては、夢であったアナウンサーを辞めたことです。なぜ研究者へ転職をしようと思ったのですか?

NS : 生きる覚悟です。東日本大震災で被災された現地の方々に聞くと、遺構を残すのにも、花壇を作るのにも覚悟が必要だと言うのです。その時は何故そこまで覚悟を決めなければいけないのか理解できませんでした。それを知るためには、その方々に寄り添って生きなければいけない。中途半端に関わるのではなく、覚悟が必要だと感じました。だから、アナウンサーを辞めて、研究者を志すことにしました。当時、復興のためという名目のもと、訳のわからない利害者たちがもの凄い勢いで大槌に入ってきましたが、住民たちは何ひとつ武器がありませんでした。行政とのまちづくりの話し合いの中でも「あの時こう言ったべ!」と言っても何も証拠にならないわけです。だから、私はいつ誰が何を発言したのかを収めた議事録を作って、彼らの武器をつくることにしました。

KA : 何故、大槌だったのでしょうか?

NS : 震災当初の私の取材先は陸前高田市だったのですが、大槌では大事な町長選が控えていて、重要な場所になりつつありました。そこで取材に選ばれたのが私でした。いざ行ってみると、大槌の方々が私に相談をするのです。「グラウンドを作りたいのだけれどもどうしたらいい?」など。何の知恵もない私にはどうしようもありませんでした。また、大槌では、必死に生きている人たちが大勢いるのにも関わらず、被災のことばかり「悲しい」「辛い」と焦点化されるか、美談しか取り上げていませんでした。そうした泥臭く生きている人たちに応える為に、まずは復興についてもっと理解するべきだと思いました。綺麗事の復興ではなく、被災した人たちにとっての復興を彼らの視点で解き明かさなければいけないとそう思うようになったのです。

AS : 大槌に通うようになり共同体について何か感じることはありましたか?

NS : 保守的な私は正直なところ、大槌は復興によって変わる必要がないと感じています。経済的発展がどこまで必要なのかと。大槌には土着的な繋がり、獲れた魚をお裾分けし合う文化や、生と死を媒介としたリスクを共有する死生観など、数年レベルではなく、長い歴史の積み重なりによって生まれてきた尊いものがあります。と同時にしがらみのようなものもある。これは私が十郎さんの故郷である衣川でも感じていた部分です。けれども、農村と漁村は結構違います。海では何事もカラッとしていますし、私は静岡の海を見て育ったので、ある意味、大槌に通うことは、幼い頃のアイデンティティをもう一度取りに行く、再生させるという作業でもありました。そこから大槌と深く付き合うようになって、衣川の人を大切にすることの本当の意味を理解するようになりました。

AS : 奈央さんは自ら掴み取る、ということを意識してこれまで生きてきましたが、大槌の場合は少し状況が異なりますね。幼少期の頃は「一番になりたい」という、あくまで個人的欲求が強く、それ自体が目的になっていたと思いますが、現在は誰かの為になることが前提にあって、プロセスや手段自体にオリジナル性が自然と帯びるようになってきたように感じます。

NS : 誰かの為に生きるのが怖くなくなったのでしょうね。信頼される心地良さを知ったのかもしれません。

KA : 震災によって大きく変わったのですね。信頼というものがしっかりベースにある。僕はそれを研究から入っているということに非常に共感しました。しかし、例えば学生時代の奈央さんを見てもあまり共感はしないと思うのです 笑。

NS : 微細な心の声をキャッチできるようになったのだと思います。私は今どうしたいか、周りにどう合わせていけば良いか。

AS : 周囲にもうまく伝えられているような気がします。このコミュニティでは少なくとも理解はされている。




磁石のS極N極のような夫婦の相補関係

AS : 先天的に与えられた気質や環境、後天的に努力されてきたことによって現在の奈央さんの人格が形成されてきたと思いますが、そう考えると、十郎さんとは会うべくして出会った感じがしますね。おふたりを見ていると、磁石のS極N極や、DNAのらせん構造などの相補関係をイメージします。

NS : そう、本当に真逆の人間ですね。同じようなタイプだったら結婚生活はすでに破綻していると思います 笑。人は年齢を重ねるうちに頑固になっていくものですが、十郎さんは変化することを厭わない。十郎さんが大きく変わったことは、よく笑うようになったこと。そして、結婚前は個として動いていたけれども、少しずつ人を育てるといった集団の中で生きる意識が強くなってきたと思います。仕事から帰ってきた時の表情や何気ない行動から、そのような変化を感じることができて、十郎さんは対峙する状況に応じて自分を変えることができる柔軟な人間だということが分かりました。

KA : 十郎さんは自身が変わっていくというよりも、自分を取り巻く環境を変えているのだと思います。人に対して果てしない興味があって、自分の世界を広げようとしている。そして、それを阻むものに抵抗している。だから、芯の部分は意外と変わっていなくて、それに反して世界とのコミュニケーションに対しては非常に柔軟なのだと思います。

AS : 人を介して、まだ見ぬ世界を広げているような気がしますね。冒険家にならないのは、人を通じて世界を見ることができるから自分自身でそれを体現する必要がない、ということかもしれませんね。

KA : 逆に奈央さんは狙い撃ちしている感じがありますね。しっかり目標を定めて到達できる人。十郎さんは世界を広げて好奇心のままに行ける人。

NS : 菊地十郎という人間の生き方が格好良いと思っているので、残りの人生もこのまま存分に生きて欲しい。世界を広げすぎてフラフラしていたら勿体ない。だから、私なりに導いているつもりです 笑。

AS : 確かに世界を広げすぎることによって、無限にある選択肢を選べないということはありますよね。奈央さんによる導きによって射程が大枠で定まり、バランスが良くなるのかもしれません。

JK : 彼女の選択は結構当ります。二手の分かれ道があったとして、「こっちが良いよ」というのは大抵当たっている。もちろん別の道があったかもしれませんが、それに従ってみると、この道も良かったなと思える。ある意味その積み重ねですね。結婚前の話ですが、僕が結婚したいと考えていた女性像は「一人でも生きられる女性」でした。私がいなくても大丈夫な人。奈央はまさにそのような人です。

AS : 意見がぶつかったりする場合はどうしていますか? また、それでも一緒に居続けようと思う原動力について教えてください。

JK : 僕自身はあまりぶつかっているという感覚はありません。結構細かく色々言われるのですが、それに対して壁をつくっているつもりはなくて、そういう考え方もあるのかと捉えます。吸収という訳でもありませんが、一旦引き受ける。時間をおくことによって僕も少しずつ理解できるようになるし、彼女の中でも発酵してくる。たとえば完全に答えが「A」だと思っていたことが、変化して「A’」になっていったりする。

NS : 徹底的に納得するまで話をするようにしています。時間がなくても、目を合わせてしっかり向き合って話をしてもらいたい。

KA : 時間がない中でも何回も話すうちに、やはりそうかもしれないとなっていくから歩み寄れる。ふたりにとってやはり大切なのはコミュニケーションなのですね。

JK : たまに2、3日間、口も聞かないみたいな事もありますが、大体1日くらいで歩み寄れる。

NS : おそらく時間がかからないのは十郎さんにチャーミングなところがあるからだと思います。真剣に話をしていても、どこか天然なところがあって、つい吹き出してしまう 笑。凄く怒っていたけれども、最終的には仕方ないかなと思わせてしまうような魅力がある。




能動的にコミュニティへ関わるアティチュードが
周りに関わりを持とうとする気持ち生む

KA : 僕はこの小さな共同体において、十郎さんや奈央さんの存在がなかったら、もう少しふわりとしたコミュニティになっていたのではないかと思っています。私たちの空間を生き生きとしたものにしているのはお二人の力が大きい。そもそもの話ですが、おふたりがここに住もうと思ったのは何故ですか?

JK : 最初は賃貸で家を探していましたが、ここ GOODDAY はすでに埋まっていて叶いませんでした。しかし、ちょうど賃貸ではなく建売をする予定の家が、GOODDAY の並びに建てられていることを知り、直感でここに住もうと思いました。

NS : 建設途中の家を見せてもらったのですが、まず大工さんたちの道具が綺麗に整理整頓されていることに感動しました。誰かが見ている訳でもないので、乱雑でも良いはずですが、家を購入するにあたり信頼に値すると感じました。それから設計を担当している有原さんと打ち合わせをして楽しかったことも大きかった。テレビ局で番組を作っているような、一緒にものを作り上げていく感覚があって非常に心地よいものでした。話を聞くと有原さんも自身で設計したGOODDAYに住んでいるということでした。このような人が近くにいるなら絶対楽しいと思ったことを覚えています。
それから私はここぞという場面では十郎さんの判断を大事にしているので、家を買うことについて意思を確かめると、お互いがこの家を購入することでほぼ心が定まっていることがわかりました。新幹線の高架下にあるという立地が気になって「家を建てるなら少し離れたところが良いのでは?」と言及したのですが、十郎さんは「コミュニティで生きていくなら絶対に GOODDAY と同じ並びにするべきだ」と答えました。この意思を聞いて、私のわずかな迷いも消えていました。

KA : 奈央さんのイメージではその場で決めてしまいそうですが、面白いのは大事な局面では絶対に即決しないですよね。必ず持ち帰って十郎さんと考える。それは一緒につくるという感覚を大切にしているからですよね。僕ら家をつくる側は、住む人の話を聞いてみないとわからないこともあるので、当然一緒につくるという意識がありますが、奈央さんは番組づくりと重ねていたのですね。

AS : 実際、このコミュニティで暮らしてみてどのように感じていますか?

NS : 最初は生真面目な性格の十郎さんがうまくコミュニティに入っていけるか心配でした。私たち以外の住人は一緒に仕事もしている仲なので、話についていけるのかなと。だから私は時間をかけて種を撒いていました。十郎さんが故郷である衣川ではなく日詰で生きていく、という決断をしたことは私の中でとても大きくて、その責任は負わなければいけないと思っていました。幸いなことに、十郎さんが好きな「走る」ということを活かせる、Running Club も発足されて、十郎さんのポジションが少しずつ見えてきたように思います。一年かけてやっと肩の荷が少し降りた感覚です。

KA : 奈央さんは怯えながら、十郎さんは楽しみながら、違いはあれど、おふたりとも大切にしているのはコミュニケーションなのですよね。積極的に人と関わることは非常に勇気がいることです。奈央さんがコミュニティに対して能動的に関わっていく姿勢を見せてくれるから、周りにも関わろうとする気持ちが生まれてくる。これは誰にでもできることではない。エネルギーもいるし、とても勇気がいることです。しかし、コミュニケーションすることに対して一番怯えている人がそれを担当しているということが面白い 笑。

AS : 反対に言うとそれだけ人とのコミュニケーションを欲しているということでもありますね。幼少期に体験したことから学び、コミュニケーションがいかに重要であり、かつ、脆いものであるかを知っているからこそ慎重に動いているような気がします。奈央さんはこのコミュニティに参加してから変化したことはありますか?

NS : 私はいつも自分自身にカツを入れて、それを原動力に動いてきましたが、研究を始めたことやこのコミュニティに参加したことで原動力が変わってきたように思います。

JK : 彼女は以前まではストレスをそのまま抱え込んでいました。しかし、このコミュニティに参加することによって相談する人ができ、上手く発散の場として機能しているような気がします。彼女の悩み自体が直接解決するというよりも、些細なことを話しているうちに心が開放されるような、そんな場になっているのではないでしょうか。

KA : 奈央さんはエネルギーの塊のような人だから、適度に発散させないとストレスが溜まってしまうのでしょうね。

NS : 私の根底にあるのは、過去の時間を取り戻したい、ということなのだと思います。だから第二の人生をやり直すという気持ちが強いです。




人間臭いリアルなコミュニケーションだからこそ生まれる豊さ

KA : コミュニティという意味でいえば、奈央さんは大槌というコミュニティにもある種所属していると思います、そちらはどのように感じていますか?

NS : 大槌で信頼されてきたということもあると思いますが、容赦無く感情をぶつけてきてくれます。きっと時代錯誤な部分もありますが、それが人間臭くて凄く良い。ある意味震災があってその豊かさが浮き彫りになっているのでしょうね。また、震災を契機に若い人たちが戻ってきています。実は震災後の様子については、大槌が一番報道されています。それは海辺ということもあって生死が身近にあるせいか、彼らの主張も明確で、報道する側も面白いからだと思います。 大槌に来る人たちを見ていると、そのような面倒だけれども人間臭さというものを求めて来ているような気がしますね。きっと地方での暮らしのロールモデルという側面があるのだと思います。

KA : 多様な人が住んでいて、対人関係におけるリアルなコミュニケーションが大槌にはあると感じたということですね。十郎さんとこのコミュニティに参加することを決断する時に同じようなコミュニケーションがあったのだと思います。そう考えると、大槌がどう復興するのかに関係なく、「人と人が対峙する中で生まれるリアルなコミュニケーションがここには残ってる」という気づきの方が奈央さんには意味があったのではないでしょうか。

NS : 多くの学びがあった場所ですが、私にとって大槌はどこか仮想的だったとも言えます。大槌の人たちも私を住民として捉えてくれるようになり、私自身もそう思っていますが、やはりどこか違うとも感じています。だからこそ自分も当事者として生きていきたいと思っていました。それが今参加しているこのコミュニティでの暮らしです。

KA : このコミュニティで暮らしていく、とおふたりが想い描いたことと大槌で想い描いたことがどのようになっていくか、シンクロするものがあるのか、違いが生まれてくるのか、これからが楽しみですね。

JK : 僕にとっても震災は大きな出来事で、これは自分がどうにかしなければいけないと思いました。とはいえ、当時は報道デスクという立場で、自分で取材に行くことは叶わなかった。僕としてはデスクにいてディレクションしているだけでは小手先のように感じてしまい、どうしても汗をかいてまちづくりに携わりたかった。そのような想いを抱えている時、復興庁ができるという話が上がってきて、最初はそこに所属することで何か貢献したいと思いましたが、復興庁がどのような組織になるのかもわからないし、思い描いているようなことができるかもわからないと言われて、テレビ局員としてできることを考え始めました。そこで、被災地が今どのような状況にあるのかを世界に発信する、ということが自分としてできることだとあらためて思い直しました。復興しようと実際に動く人がいて、僕は僕のできることをする、とようやく腹に落とすことができたのです。

KA : 俯瞰すると、やっていることは同じですよね。奈央さんは現場に入ることで、 十郎さんは十郎さんのできるでことで復興に貢献していた。誰にどうコミュニケートするかの違いだけ。なかなか発信する力を持った人はいませんから、現場が全てではないと思います。あの時も今も、さまざまな人が自分のできることの中で動いていたのだと思います。




コミュニティの中で語り継がれていくもの

AS : 今回、十郎さんの実家がある衣川を取材させてもらい、広い農地やお父様が残した膨大な数の資料に関して、十郎さんは「自分が受け継ぐのではなく、僕はふさわしい人への繋ぎ手の役目を担うべきだと思う」とおっしゃっていたのが印象的でした。おふたりにとって次代に残していきたいものは何ですか?

NS : 私が残していきたいと思っている最大のものは「菊地十郎」です。十郎さんは男としても、人としても生き方が本当にかっこいいと思っています。この人の遺伝子を残したい、と思って結婚しましたが、それは成し遂げられないとわかって、自分の生きる意味を模索しながら生きてきました。そして、辿り着いたのが「ここ」でした。菊地十郎の頭脳や懐の大きさ、人として豊かさを、このコミュニティで残したい。衣川でも良いですが、「ここ」に家を建てて、「ここ」で生きていくと決めたからにはこの地で何かしらの菊地十郎を残していきたいのです。

AS : 共同体というものがしっかり機能していた時代は直接的ではないにしろ、誰かがその人となりを次の世代の人に伝えていくということがあった筈ですが、いつからかぷっつり切断されてしまった。もちろん偉人と呼ばれるような著名人は残っていくのでしょうが、遠野物語のような名もなき人間の逸話や伝聞というものが伝わりにくい世界になってしまった気がします。しかし、たとえば、このコミュニティのようなものがあれば、僕たちの子どもたちに繋げていくことができる。この「人 to ひと」も、ここで生きた人の記憶をアーカイブしていくことが目的のひとつだったりもします。

KA : 伝える人が当事者ではなくても良いと思います。十郎さんや奈央さんのことを僕らが伝えていけば良い。それは単純なことだけれどもすごく素敵だと思う。何となく覚えているくらいでも僕らが生きていたことを子どもたちが伝えてくれる。

JK : 僕の親父は生前、中国で砂漠の緑化活動をしていましたが、本当に素晴らしい活動だったと思っています。中国政府に直接掛け合って、日本から日本人を連れて行き植林活動をしたのです。それから、地元の住人も交えて、啓蒙活動のようなことも続けていた。今は全て中国政府に返還しましたが、そういう人が身近にいたということをいかに次の世代に伝えていくか。僕なんかは実際に見てきたから理解できる部分があるけれども、これからは見たことがない人にも伝えていかなければならない。その伝える道具として写真や資料をどう活かしたら良いかが今の課題です。僕がただ保管していても意味がないので、誰かに繋げることができたら嬉しい。

NS : 衣川ではなく、ここで暮らすという決断に至ったことに罪悪感がありました。十郎さんの生きる場所を探さなければいけないと背負い込んで生きてきたから、このコミュニティに参加してようやく重荷がおろせるかなと思い始めています。たとえばコミュニティの中で、発足された Running Club では十郎さんのことをキャプテンと親しみを込めて呼んでくれることが嬉しかったり。少しは生きていく根が張れてきたのかなと感じています。

KA : こんなふうに奈央さんが自ら2番手でいる時の方が僕は素敵だと思ってしまいます 笑。1番になろうとしていた人が自ら2番手になろうとしているのはかっこいい。

NS : それは十郎さんだからです。きっと十郎さんだから20年も一緒にいれたのだと思います。本当に1分1秒も飽きさせないのです 笑。