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Interview

佐々木 新 / 佐々木 桜子

仕事と子育て、暮らしが混ざり合って、生きるに根付く

インタビュー

Interview

 ディレクター、キュレーター、編集者、作家と一つの肩書きに属さない複眼的な視点でブランディングや創作を為す佐々木新さんと、子育てを中心に場づくりに携わる佐々木桜子さん。

 2019年、新しい命を授かったことを機にふたりは、岩手県紫波町で暮らし始めました。現在は紫波町での暮らしを真ん中に、新さんは本誌『人 to ひと』の編集長をはじめ、温泉施設「ひづめゆ」やりんごを発酵させて造るハードサイダーブランド「Green Neighbors Hard Cider」などのブランディングを手がけ、桜子さんは「星山えほんの森保育園」で地域コーディネイターを務めています。

 紫波町で暮らして5年──。
「どうやって家族をつくっていけばいいのかわからなかった」という彼らは、2人の子どもと今、この場所で、どんな日々を営んでいるのか。

 東京から住まいを訪ねると、お昼寝から目覚めたばかりの真っ赤なほっぺをした5歳の緑ちゃんと3歳の青くんが元気に出迎えてくれました。散歩に出かけるとき、緑ちゃんがほぼはじめましての私の手をすっと握ってくれて、その温もりに周囲の大人を信頼しているのだなと感じました。隣りでは、桜子さんが青くんと手をつなぎたんぽぽの歌を口ずさんでいます。

 住人が集う夜の食事会では、桜子さんの心尽くしの料理が並ぶ食卓を囲んで、大人たちがおしゃべりに興じる中、子どもたちが部屋を駆け回ったり、大人を挟んでジブリを鑑賞したり。ほんの束の間ご一緒しただけだけれど、子どもを育てる環境における一つの理想の風景を見たように思いました。

 佐々木家を取り囲むコミュニティでは、生産と消費、仕事と暮らし、子どもと大人が分断されることなく地続きに混ざり合っています。どのようにして家族が閉じずに、子育てというケアが地域の共同体にひらかれていったのか。ここに至るまでの話をじっくり伺いました。

  • AS : 佐々木 新 (HITSFAMILY 共同代表)
  • SS : 佐々木 桜子 (星山えほんの森保育園 コミュニティ・コーディネーター)
  • RT : 徳 瑠里香 (ライター/編集者)

受容される安堵への焦燥
「安全基地」を飛び出して

RT : どんな環境で生まれ育ったのか。新さんの幼少時代からお聞きできますか。

AS : 盛岡市の大通、街の中心部で生まれまして。父が小さな書店を営んでいたので、幼い頃は絵本が身近にあって、のめり込んだ物語は今も覚えています。眠りにつく前、好きな絵本を選んで布団の中で両親に読み聞かせてもらう時間は、温かい毛布に包まれるような特別なものでした。

小学1年の頃に盛岡市の松園というニュータウン、といっても山に囲まれ川が流れる自然豊かな町に引っ越しました。3歳下、10歳下に弟が2人いるんですが、次男と友だちと一緒に、今思えばかなり危険な遊びをしていましたね(笑)。山や川が遊び場で、何度か死にかけたことも……。

RT : 新さんにやんちゃなイメージがなかったので、意外です(笑)。

AS : 都市と田舎、家庭と学校、自分を取り囲むコミュニティがいくつかあって、それぞれ自分の顔が違っていたように思います。幼少期、自分の人格形成に最も影響を及ぼした原体験はキリスト教です。両親が熱心なクリスチャンで、週に一度、都市部の教会に通っていました。

同じ信仰心でつながる教会のコミュニティは特殊で、“汝、隣人を愛せよ”というキリストの教えを地で行くような空気感で。子どもたちは常に大人の温かな眼差しで見守られていて、すべてを受容されるような、なんとも言えない安堵感がありました。

両親も毎日祈りをささげ、聖書の言葉を体現するような人だったので、怒られたり否定されることがほとんどなくて。内向的で傷つきやすい子どもだった私は、多様性に富んだ学校で、友だちのささいな言葉や行為に傷ついては、家庭や教会で癒されていたように思います。

RT : 無防備な子ども時代に、家庭とそれ以外のコミュニティで、ありのままを受け容れられるような安堵に包まれた「安全基地」とも言える環境があるのは、貴重なことだと思います。子どもの人格形成においてとても大切なことですが、家庭だけで構築するのは難しいとも感じるので。

AS : そうですよね。その意味で、キリストの教えを共有したコミュニティの存在は大きかったと思います。ただ、高校生にもなると、外の世界は違うことに気づき、このまま居心地のいい守られた場所にいてはいけないという焦りが出てきて。泣き虫でちょっとした刺激でボロボロになってしまう弱い自分に嫌気が差したというか。

社会で生きていくために成長したい、競争社会で勝負したいという意欲が高まって、18歳で教会も実家も離れて、大学で教育心理学、その後、東京の専門学校で服飾デザインを学んで、社会に出たのは25歳の頃でした。

その後、友人でもあるビジネスパートナーとの共同経営でデザインスタジオ「HITSFAMILY」を立ち上げたんですが、起業当初はもうやっていけない、戻りたいと思う瞬間は何度もありました。でも、自分の力で社会で生きていけるという手応え、食べていける安心がなければ戻れない。ある種の意地が歯止めになって、会社のクリエイティブ事業をなんとか軌道に乗せることができました。

RT : 与えられた安心ではなく、自分の手で安心を得るまでは戻らないと。戻れる場所があるからこその強さなのかもしれません。





世界が拓けた出会い、自分の意思で描いた未来

RT : 桜子さんの幼少期のお話も聞かせてください。

SS : 私は盛岡市の隣町矢巾町で、両親と祖父母、4人きょうだいの8人家族で育ちました。12歳上の兄、10歳上の兄、8歳上の姉がいる末っ子です。

隣の家との距離が遠い田舎の住まいで。父と母が共働きだったので、祖父母と生活をともにしていました。農作業をする祖母の隣で草花でおままごとをしたり、一緒に田植えをしたり、老人クラブについていったり、おばあちゃんっ子でした。同級生より、おばあちゃんの友だちが多かったです(笑)。

AS : 桜子さんは今でも、おじいちゃんおばあちゃんとすぐに仲良くなります。つい先日も、公園で犬の散歩をするおじいさんと並んで長話をしていて。初めて会った人ですよ? 自然と打ち解けられるのは、ある種の才能だなと。

SS : 大人数の輪の中に入っていくのは苦手だけど、1対1の関係でおしゃべりするのは好きです。

RT : 学生時代はどんなふうに過ごしたのでしょう?

SS : 小学校で姉が習っているのを見てバドミントンを始め、高校も部活に専念するために選びました。学校に行き部活を夜までして帰って眠る毎日。遊ぶ暇もなく毎日がバドミントンでした。高校3年生になったとき、いざ進路を選ぼうと思っても自分が何をしたいのかわからず、未来のことが考えられませんでした。

上に3人のきょうだいがいるので、私が大学に行くのは難しいだろうと、先生や両親に勧められるがまま、地元の企業に就職し、事務職につきました。

RT : 末っ子という環境からなのか、常に周囲の人たちを気遣い、思いやる桜子さんの片鱗が垣間見えるような気もします。

SS : 上のきょうだいを見ていたし、親にもっと自分を見てほしい、だから期待に応えたいという思いもあって。当時を振り返ると辛いと思うことはありませんでしたが、無意識のうちに自分の意思を置き去りにしてしまったのかもしれません。

初めての職場で学べることも多かったけれど、変わりたい、何者かになりたい、という気持ちがずっとどこかにあって。転機になったのは、プライベートで訪ねた盛岡のお店との出会いでした。

夫婦が営むその店は、服のセレクトショップなのに、現代アートの展示やトークイベントが開かれていて。ここにいたら新しい世界が見られる!と毎週末通っていました。当時18歳で、買えるものは限られていたけど、店主のふたりはいろんな世界を見せてくれた。その目利きと哲学と人柄に惚れこんで、働かせてほしいと頼み込みました。平日は週5で事務をして、土日はインターンとしてお店の手伝いをする日々を半年くらい続けて……。いよいよ事務をしている場合じゃないと、お願いして雇ってもらうことになったんです。

RT : 雷が落ちるような衝動、心をわし掴みされる世界に出会っちゃったんですね。

SS : そうなんです。お店では人を雇うのが初めてだったんですが、しっかり準備をして迎え入れてくれて。「ここを巣立つときにはどこでも通用する一人前になれるように、自分たちに教えられることは全部教える」と、買い付けにも会議にも参加させてくれた本当に愛情深い人たちで……。仕事のやり方も、人間としても、学ぶことの多い刺激的な日々でした。実は新さんともこのお店を通して出会っているんです。

AS : 当時、会社でアート・デザイン領域のクリエイティブディレクションを手がける傍ら、個人では小説や展示作品を発表していまして。社会への諦念感というか、倦怠感のようなものが自分の中に漂っていて、それを創作にぶつけていました。その作品展示を交友関係のあったご夫婦に声をかけてもらって、盛岡のお店で開いたんです。そこに桜子さんがいて、交際が始まりました。

RT : 東京と岩手の遠距離恋愛だったんですね。

SS : そのお店でつながったアパレルブランドのPRをやりたいという夢もできて、お店のご夫婦にも恩返しできるように、自立してキャリアを築いていきたい。そう思っていた矢先に、命を授かったんです。21歳でした。





産む、産まない
不安と混乱の中での決断

RT : これから自分のキャリアを歩んでいく、大事なタイミングに妊娠が重なったんですね。

AS : 予期せぬタイミングだったので、喜びよりも先に戸惑いや不安があって、葛藤しました。私は東京で20年、自分で食べていける手応えも得られるようになっていましたが、営んでいるのは小さな会社で、家族をつくって子どもを養っていける自信も保証もない。最も桜子さんはこれからキャリアを築いていくときで、妊娠出産は身体的にも精神的にもどうしても女性の負担が大きくなってしまう。

SS : やっと自分の未来が描けるようになったのに、その未来が途絶えてしまうようで、お腹に宿った命の存在を受け入れられなくて。本当に自分勝手なんですが、誰にも知らせないまま、産まない選択も真剣に考えました。

AS : 限られた時間の中でふたりで何度も電話で対話を重ね、私は産んでほしいという気持ちも芽生えていたけれど、最終的には桜子さんに委ねようと。彼女の未来を考えて、産まない方へ傾いていったんですが、ある日、実家で桜子さんのお母さんが変化に気づいたんですよね。

SS : 母には産まないという選択肢はなく、勝手すぎると叱られて。自分を産んだ母が、子どもを生み育てることを当たり前にポジティブなことだと思っていることに背中を押されたのかな。最終的には自分で産む決断ができました。それでも気持ちが揺らいで、妊娠中は不安と混乱の渦の中にいました。

RT : ホルモンバランスも大きく乱れますし、体の変化に心がついていけないですよね。

SS : 悪阻がひどくて接客がままならず、お店を辞めざるを得なくなってしまって。実の娘のように可愛がって育ててくれたお店のご夫婦に恩返しができないどころか、自分の都合でふたりを傷つけてしまった。申し訳なくて、悔しくて、やるせなくて。ふたりのことを思うと今でも胸が痛みます。





家族を閉じることなく、共同体で子どもを育てる

RT : そこからおふたりはどのようにして命の存在を受け止め、家族をつくる準備を進めたのでしょう?

AS : たまたまなんですが、私が保育事業を全国で展開するみんなのみらい計画さんのブランディングに関わっていまして。対話を重ねる中で「子どもは大人のガイドだ」という言葉に出会ったのです。ああそうかもしれないと腑に落ちて。僕も桜子さんもそれまで子どもがいる未来を描いてこなかったけれど、この機会に子どもを通じて世界を捉え直してみたい。そんな思いを伝え、僕ら新米の父と母がさまざまな家族を訪ねそのあり方を探る『mewl magazine』を企画・編集することになったんです。突然家族をつくることになって、どうすればいいかわからなかった。わからないなら先輩たちに聞きに行こうと。

SS : 長女の緑がお腹にいるときに、新さんが提案してくれて。出産後も不安定な時期が続いたんですが、記事や取材同行を通して、いろんな家族のかたちに触れる中で、“子どもを最優先にして、自分のやりたいことは諦めなきゃいけない”という思い込みがあったことに気づいて。そうじゃない自分たちの親としてのあり方、家族のかたちを少しずつ考えられるようになりました。

AS : 『mewl magazine』の活動を通して、視点を得て思考を深め、自分たちの家族のかたちを模索しながら、淡々とともに暮らす準備を進めていきました。住む場所は、実家が近い岩手がいいだろうと。盛岡を中心に住まいを探していたのですが、全然見つからなくて伸ばし伸ばしに、、、

RT : 住まいを探す際、どんなことを重視していたのでしょう?

AS : 家自体の空間のあり方と、まちを含めた周囲のコミュニティですね。私自身が環境に影響を受けやすいので、子どもたちにもいい環境でのびのび育ってほしい。でも、暮らしのイメージが湧く環境になかなか出会えなくて。そんな中、あるイベントで「くらしすた不動産」の星さんにお会いしまして。紫波町に集合住宅が新しく建つことを知り、説明会に行ったら友人の建築家さんがいて、設計した物件に自ら住むという。まさに思い描いていた居住空間であり、隣人となる方々の人柄にも惹かれて、即決しました。

SS : それぞれの実家で暮らしながら完成を待って、緑が生まれて半年後から一緒にここで暮らし始めました。
申し込んだ当初、新さんにはこのコミュニティで暮らすことが私と子どもにとってプラスになると言われていたけれど、正直腑に落ちてなかったんです。産後、自分が不安定な中で家族以外の人と関わる怖さもあったし、ましてや初めての子育てで迷惑をかける気しかしない。自分と関わることで相手にとっていいことは一つもないんじゃないかって。

RT : 子育てには他人に迷惑をかけちゃいけないというプレッシャーが漂いますよね。

SS : でも、ここに暮らす人たちは親戚かな?って思うほど、迷惑をかけてしまうことを厭わない。「私が子どもたちを見てるから、桜子さんはゆっくりして~」と当たり前のように声をかけてくれるし、休日に一緒に海に遊びに行く計画を立ててくれることも。

月に1~2回の頻度で住人たちが集う食事会が開かれるんですが、「持ち寄りも無理しなくていいからね」というスタンスで。子どもたちが家の中でエネルギーを持て余していると誰かが散歩に連れ出してくれる。ここで暮らすうちに子育てのプレッシャーが少しずつ解れていきました。

AS : 田舎の長屋で夕飯を近所の人と食べたり、子どもたちが駆け回っているのが当たり前の環境で育った方々は、家族をひらいてくれる。僕らもそこに便乗して、家族が閉じずにいられるんです。

コミュニティ内に「Running Club」が発足したここ数年は、週末に住民のみなさんと走って、「ひづめゆ」に浸かってサウナで汗を流し、「Green Neighbors Hard Cider」で乾杯して、食事会をするのが定番の流れですね。

SS : 春から夏にかけては、みんなの庭でBBQをしてね。

AS : 住居を中心としたコミュニティの中で、顔を合わせれば子どもたちが駆け寄っていき、たわいもない話をして、時にお裾分けをして、食卓をともに囲む。昭和初期頃まではきっと当たり前だった地域のつながりが、小さくゆるやかにこの場所でも生まれています。





仕事と暮らしを一本化
人生に紐づく問いと願いを胸に

RT : くらしすた不動産の星さんご夫婦、設計をした建築家さんも同じ住居で暮らし、新さんはくらしすた不動産が運営する「ひづめゆ」や「Green Neighbors Hard Cider」のブランディングを手がけ、住民のみなさんでまちのコミュニティづくりを担っている。自分たちでつくった住居、施設、食べもの・飲みものが自分たちの暮らしに当たり前にある。消費と生産、仕事と暮らしがかけ離れておらず、コミュニティ内に小さな経済圏があるようです。

AS : そうですね。ここに暮らす人たちは、まちが豊かにならないと自分たちの暮らしも豊かにならないという想いを持っていると思います。街がよりよくなるためにはどうすればいいのかを常に考えています。自然と私たちも家族という共同体から、まちという共同体へ意識が広がっていきました。
編集長を務めるこのメディア『人 to ひと』もこのまち、このコミュニティに暮らす人々の営みをアーカイブして土地の記憶を残すために始めました。

RT : 『mewl magazine』も『人 to ひと』もそうですが、新さんはご自身の人生に紐づく手触りのある問いを探求し共有しながら、表現をされていますよね。

AS : 単純にやりたくないことはできない、興味のあることしかできないタイプなので。今の自分の中心にある地域の暮らしが仕事になっていきました。仕事と暮らしの行き来がなく、溶けている感じというか。

SS : 新さんは自然にそうなっていったよね。私もその点、仕事と子育てを一本化したんです。緑、そして青が生まれて、自分の暮らしの真ん中に子育てがあって。子どもたちの未来が明るいものであってほしい。その願いは、子どもたちを取り囲む家族だけじゃなく、まち、社会全体が豊かでなくては叶わない。自分たちだけではなく、みんなで幸せになりたい。そんな想いがみんなのみらい計画さんのビジョンに重なり、PRを経て、紫波町の「星山えほんの森保育園」で地域コーディネーターとして働くように。私が勤める保育園に緑と青も通っているので、仕事と子育てがつながった。家庭の中だけではなく、社会の中で育つ子どもたちの顔を見られる。自己満足かもしれないけれど、子育てが仕事に活きるし、私が仕事をがんばることが子どもたちの幸せにも直結する。

RT : 新さんもみんなのみらい計画さんのブランディングを手がけていますが、おふたりの仕事はそのまま緑ちゃんと青くんが育つ環境づくりにつながっている。仕事と子育て、暮らしが混ざり合って、生きることに根付いている感じがします。

AS : たしかに、東京から紫波町に越してきてからのいちばんの変化は、生きることがベースになったことかもしれません。東京時代は、デザイン・アート界隈の限られたコミュニティ、閉じられた言葉で、そこでしか通用しない表現をしていました。もちろん切磋琢磨した仲間も経験もすべてが財産なんですが。
紫波町では近所の農家さんからお米や野菜をもらうことも多く、彼らは食べて生きるという原点と常に向き合っている。自分とは違う思考と言葉を持っているので、視野が広がり思考が混ざっておもしろいんですよね。

SS : 私が勤める星山えほんの森保育園は「農保連携」を掲げていて。園長の旦那さんが農家で菜園担当なんですが、広い園庭の半分が畑なんです。子どもたちが遊ぶすぐ隣りで、大人たちが畑を耕していて、自然と混ざり合っていく。地元の農家さんと協力して、有機栽培・無農薬で育てた野菜で給食をまかなうサイクルをつくっている最中で、私も畑で土を触って手を動かすようになりました。

RT : おふたりとも思考も行動もすごく柔軟に、この土地でできることを仕事にされている。しっかり地に足がついていますよね。

SS : 以前、SNSを通して意識が外に向きすぎて、自分が置き去りになってしまう感覚があったんです。ここに来てから、自然とSNSとの距離ができて、日々を振り返るのも、写真を印刷してアルバムをつくったり、ノートに読んだ本のフレーズを書き出したり、内側に向くようになって。今はそれが心地よいなと思っています。

AS : 私は東京でひとり自由気ままに暮らしていた頃を思うと、自分の内に潜り込んで創作をする時間はほとんどなくなりました。越してきた当初は何か書かなきゃと毎日机に向かっていたんですが、気持ちに無理が生じるようになって。孤独じゃないからなのかな。今は、子どもたちと開かれたこのコミュニティで暮らすことを楽しもうと。金融のしくみを知りお金を稼ぐことも含めて、子どもたちを取り巻く環境づくりに力を注ぎたいと思っていますね。





最低で最高な毎日
自分で判断して選べる環境を

RT : 子どもたちを取り巻く環境をつくるうえで大事にしていることはありますか?

AS : 子どもは環境を選べないですから、親ができることの一つとして環境づくりは大切だと思っています。子育てをするようになって、自分が育ってきた環境、親に想いを馳せる機会が増えたのですが、うちの両親は暮らしにブレない思想がありました。食材も日用品もオーガニックのものが中心で、与えられたのは玩具ではなく絵本で、テレビもクラシックな番組しか観られないし、おやつもおせんべいで。幼い頃は嫌だなと思うこともあったけど、外へ出ていろいろ知ったうえで、やっぱりこっちがいいなと戻ってくる。

RT : 新さんの根源的な美意識は、ご家庭で培われたものなのですね。

AS : 両親の美意識、価値観の影響は少なからず受けていますね。だから家庭においては、自分たちの価値観でいいものを判断して選ぶしかないと思っているんです。選択を重ねて環境をつくったうえで、子どもたちが社会に出ていろんな価値観に触れて、傷ついたり失敗もして、自分で判断して選べるようになればいいなと。

最高を知るには、最低も知らなくちゃいけない、という哲学があって。苦しいことを体験しないと、楽しいことに気づけない。口に合わない美味しくないものを食べた経験によって、普段当たり前に食べているものの美味しさがわかる。最高と最低を知って、その中でその時に一番適したものを選ぶ。そういう選択眼が磨かれる環境をつくりたいと思っています。

私は誰とどこにいるか、環境に左右されやすいんですが、辛酸を舐めたことで、自分にとって心地のよい人と場所を選べるようになった。環境を選ぶことには自信があって、それさえできれば、あとは流れる水のように漂っていれば大丈夫だと。

RT : まさにこのコミュニティもそうですよね。最高と最低を知る。幸せってそうやって、気づいていくものかもしれないですね。日々の暮らしの中で、どんなときに幸せだなと感じますか?

AS : 子どもたちが保育園から「ただいまー」と元気に帰って賑やかになったときと、子どもたちが「おやすみー」と眠りについて静かになったときですね。

RT : ああ。子どもとともに暮らす、いとおしさと大変さ、相反するものが共存する幸せですね。まさに、最低で最高な毎日。

AS : 仕事も暮らしも、すべてが最高で幸せ!とはならないと思うんです。最高だと思う瞬間も、最低だと思う瞬間もある。葛藤も喜びもどちらもある日々を続けていくしかない。家族もコミュニティもかたちあるものは変化していきます。今はここで子どもたちの環境を育みたいと思っているけれど、子どもたちが巣立ったら、都会に戻って孤独を感じながら表現に打ち込んでいるかもしれない。それはそれでいい。その流れが来たら、身を任せようと思っています。

RT : 桜子さんは、過去から未来へとつながるここでの今をどんなふうに捉えていますか?

SS : 子どもを授かったことで、自分が思い描いたなりたい者にはなれなかったけれど、子育てを通して出会った今の職場で働くようになって、心身が健康な状態にあるんです。自分の暮らしと仕事で目指す方向が一致していて、一緒に働く人たちも好きな人たちばかり。いろいろあるけど、紫波での暮らしは総じて健やかなほうへ向かっていると感じる。これから子どもの成長に合わせて、どこで何をしていくかはわからないけれど、心身が健やかな状態を保ちたいなと願っています。